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僕らの社会は「文化」を運んでいるのか?

万物の黎明という本を読んだ。

海外ではベストセラーになっている話題の本だったので手に取ってみたのだが、とにかく長い本だった。

Kindle版で読んだのだが、なんと1000ページ以上ある大著だった。1日100ページくらいのペースで読み進めたのだが、読み終えるまでに12日間もかかった。通常、僕は1冊の本を2日か3日ぐらいで読み終えるので、自分としてはとんでもない日数である。

毎日それなりの時間を確保して取り組んだにもかかわらず、これだけの時間がかかった。自分の読書計画を狂わせるぐらい、長い本だった。

これだけ長い本なので、「こういう内容の本でした」と要約するのは簡単ではない。しかし一言で表現するならば、これまでの文化人類学で語られてきた「わかりやすい物語を否定する本」と言えるかもしれない。

ちょっと前に話題になった「サピエンス全史」で知られるユヴァル・ノア・ハラリや、「銃・病原菌・鉄」などの著作で知られるジャレド・ダイヤモンドらに対するアンチテーゼとまでは言わないが、別の視点からの意見である。少しそれについてまとめてみたい。

文化人類学というジャンルがある。古くはレヴィ・ストロースなどの学者がよく知られている。どういうものかというと、世界の民族や先史時代などの社会を調査し、人類とはこういう生き物なのだということを研究するジャンルである。

多くは、アマゾンの奥地などの外界から断絶された部族や古代文明などを通じて考察することが多い。それらの社会は外界からの情報が遮断されているため、「人間」というものを捉えやすいのだ。それぞれの社会は非常にユニークで、現代人からするとちょっと驚きに満ちている。

逆に言うと、現代社会は世界の隅々まで情報が行き届くおかげで、均質的になりすぎているのかもしれない。日本であればどこの都市に行ってもだいたい似たような感じだし、世界の違う国に行っても、食べ物や着ているもの等の差異はあれど、基本的には似たような価値観、似たような生き方になっていると思う。

文化人類学の本を読むことで、自分たちというのは、本来はこういう生物なのだということを知ることができ、学びが多い。

文化人類学の本を読んでわかることは、僕らは遺伝子ではなくて、「文化を運んでいる」ということだ。

動物は逆に遺伝子しか運ばない。猫などを飼っている人はわかると思うのだが、猫はほぼ本能が99%である。うちの猫は、奥さんが独身時代に拾ってきた猫なのだが、他の猫にほとんど会ったことがないにもかかわらず、他の猫と同じような行動をとる。うちの猫で何か困ったことがあると、ネットで調べると大体その通りになる。

これは不思議なことで、他の猫との接触は一切ないのだから、「猫とはかくあるべし」と誰かに教わったわけではない。自分の本能でしか自分のことがわからないはずだが、ほぼそれに追随しているのである。他の動物、例えば馬などもそうだろうか。競馬をやる人は、どの馬とどの馬の子供がどれというのを非常に細かく把握している。

もちろん調教師やジョッキーの腕前などでも成績は変わるのだろうが、一番重要なのが遺伝情報ということである。

人間は遺伝情報だけに頼らない唯一の種だと思う。人間にももちろん本能はあるが、本能だけで生きるのは難しい。また、知能や体力などの個体差はあれど、知識をつけて工夫をすることによって打開できるものが多い。

そして、自分たちが生きていく上で必要な情報は本能ではなく、文化や知識として伝えられる。もっとも、本などの知識で人に伝えられるようになったのは、かなり近代になってからで、多くは文化によって伝えられてきた。

だから、文化を研究するということは、その社会における知恵や知識を研究することと同じということだ。

文化というのはいろんな形があって良いのだと思う。資本主義、共産主義、農耕社会、狩猟社会などがよく知られているが、それらのわかりやすい物語だけが人類の社会ではない。

例えば、「人類は昔は狩猟社会だったが、徐々に農耕社会に移行していった、その過程で国家が生まれた」みたいなわかりやすい話があるが、この本を読むと、実際にはそんなに単純ではない、ということがわかる。農業が導入されたものの、農地を放棄して狩猟生活に戻った人々や、現代の国家の形態とは全く違うような性質を持った社会も多く見られる。

つまり本能に従わない我々は、自分たちの工夫と知恵で、どんな社会でも作っていけるということだ。

貨幣ひとつとってもいろんな形がある。現代ではお金というわかりやすい貨幣があるが、例えば目に見えない貸し借りの関係であったり、信頼性の関係であったり、お金以外でお金のように扱われているものは実は結構ある。

思った以上に、人類は柔軟性に富んだ生き物なのかもしれない。研究すればするほど、つかみどころがない、というのが実際のところだろうか。

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