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「人を育てることをやめる社会」になるか?

最近、ニュースなどを見ていると、「ジョブ型雇用」に関する記事をたびたび見かける。

ジョブ型雇用という言葉はそれなりに馴染みがあるものになっているが、実際にはどのように運用されているのかは企業によってさまざまだろう。しかし、基本的な考え方を理解するため、ジョブ型雇用に関する本を読んでみた。

「ジョブ型雇用」に対比する概念は「メンバーシップ型雇用」である。従来の日本企業の新卒採用のように、職務や勤務先を限定せずに、とりあえず雇用してしまってから、いろんな職種をジョブローテーションしていくという方式のことだ。

それに対して、ジョブ型雇用は、あらかじめやるべき仕事を明確にして、それに対して最適な人を当てはめていく、という方式のことを指すらしい。いまの仕組みだと企業に「就職する」ということは、企業に尽くし、企業に守ってもらうような、「就社」のニュアンスがあるが、「ジョブ型」はもっとドライに、「特定の仕事をしてもらうだけ」の存在として社員を見る、ということだ。

よく、ジョブ型にシフトするということを、「成果報酬型へのシフト」と表現されることがあるが、それはどうも不正確らしい。日本企業では、役員から新入社員に至るまで「成果」を測られる傾向にあるが、アメリカのジョブ型雇用の評価の仕組みはもっとシンプルで、いちいち細かく「成果」を見たりしないのだという。

アメリカではジョブ型の雇用がメインだとされるが、成果を求められるというよりは、はじめから職位に値段がついていて、それを全うできるかをチェックされるだけだ、という。つまり、最初からその職を全うできる能力のある人が指名される仕組みなので、人を育てよう、という意図はそもそもない、ということになる。

確かに、移民なども多く、いろんな国籍の人がいる中で、いちいち「成果」を追うのは非効率的だし、理にかなっていない、ということになる。仕事をはじめに規定し、それができているかできていないかを判断するだけ、というのはかなりシンプルである。

これはよく考えると、外部に仕事を発注するときのロジックと同じだな、と思った。外部に仕事を発注するときは、「ちゃんとその仕事を全うできる会社」に仕事を発注する。「できるかどうかわかりません」と言っている会社に仕事を発注したりはしないだろう。

確かにその理屈だと、会社としてはうまく回るかもしれないけれど、サラリーマンが個人単位でそれを要求されるようになる社会はなんだか息苦しいよな、と。

なんの能力もない新卒を採用して、ゼロから育ててくれる環境というのは本当にありがたいことなんだな、と思う。もちろん、「何もできない」ということは、裏を返すと「なんにでもなれる」ということだ。日本の「サラリーマン」という言葉は、営業でも開発でも経理でも、どういう職種にでも当てはまるが、日本企業で働いている以上、どの職種も経験する可能性があるということだろう。

本格的にジョブ型の社会に移行していくということは、「人を育てる」ことをやめる社会を意味すると思う。アメリカなどでは、上述の通り「最初に仕事を決めて、その仕事に値段をつけ、最適な人を当てはめる」方式なので、自然と経験の浅い若者は不利になる。なので、若者の失業率が高いわけだ。

たぶん、すぐにはアメリカ型のドライなジョブ型雇用には移行せず、従来のメンバーシップ型をメインとしつつ、より専門性を持たせた形で運用する会社が多いのではないか、と思う。

会社自体も、社員が「生涯勤め上げる」ほど持つかどうかわからない、といったところのあらわれかもしれない。なんの専門性もない人が、突然会社が潰れたら路頭に迷ってしまうので、少しでもなんらかの専門性を身につけておいたほうがいい、ということだろう。

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