見出し画像

「憂鬱じゃないと仕事じゃない」は本当か?

サイバーエージェント代表の藤田晋が、「憂鬱でないものは仕事じゃない」と言っていた。確か、幻冬舎代表の見城徹氏と対談しているものか何かだっただろうか。

ABEMA TV関連の動画を見ていた時に、ふっとこの言葉が出てきたので、きっと本当にそう思っているんだろうな、と思った。

動画で示していたのはABEMA創業時からのモチベーショングラフだったのだけれど、仕事というのはたいていが憂鬱なものなので、「基本」が-5%に設定されていたのだ。

現役の経営者でこんなことを言うなんて、かなり正直で面白い人だな、と思った。


 
重要な仕事が憂鬱だというのは確かにそうだ。社内外のプレゼンテーション、重要な商談、もっといえばそもそも面接試験から、重要な局面というのはことごとく憂鬱だった。

新しい試みをするときは、たいてい予想もしていなかったトラブルが起きるし、しかも当然そういった未知のトラブルに対しては対処方法も何もわからないので、冷や汗をかきながら対応することになる。非常に憂鬱だ。

しかし、そういう瞬間にこそ新しいものは生まれているといえるので、「憂鬱なことしているときは仕事をしているとき」というのは確かにそうなのだろう。

「何かをやろうとしているとき」は好き勝手にいろんな意見を出せるので楽しいけれど、いざそれを本当にやろうと思ったら、えらく労力がかかるし、各方面との調整もこなさなければならず、とたんに憂鬱になる。


 
こういう文章を書くのは全然憂鬱じゃない。むしろただ楽しい。自分が考えていることを整理して文章にしているだけで形になるので、こんなに楽なことはない。

しかし、こういう趣味のものであったとしても、他人からの依頼だったりすると、筆が重くなる。要するに、「責任」が憂鬱さの正体なのだろうか。

好き勝手にやって楽しそうなユーチューバーはたくさんいるが、ある程度の規模になってくると法人化したり、編集を外注したりして、ただ「楽しい」というだけではすまなくなってくるようだ。

そういった責任を回避するためか、ある程度の規模になっても一人でやっていく、と言う人は多い。規模をあえて大きくしない、というのも、物事を楽しむ一つの秘訣なのかもしれない。
 
もちろん、どんなに憂鬱な仕事であっても、やっている最中はさすがに憂鬱な気分ではなく、必死でやっているし、なにがしかを達成したあとはそれなりに達成感もある。

要は、そこに至るまでの道の険しさ、大変さを想像して憂鬱になるのだろう。余計なことを考えずに、ただ手を動かし続ける、というのも手である。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。