「無敵の人」の対になる「最弱の人」
最近、奥さんと昔のドラマを見るのがマイブームである。いま、2003年に放映された山崎豊子原作の「白い巨塔」を見ている。
僕は基本的にドラマを見ないので、この作品も見たことがなかった。この2003年に放映されたものが最も有名なものだと思うが、これまでになんと6回もドラマ化されている作品らしい。時代を超えてリメイクされ続けているということは、それだけ何かの本質をついている作品なのだろう。
舞台は名門大学病院。外科医としての腕はいいが、それだけにやや傲慢な財前という主人公が、教授となるべく社内政治に奮闘する話である。視聴者は、登場人物たちが智略謀略を尽くすさまを、エンターテイメントとして楽しむことができる。
似たような「智略謀略ドラマ」として、たとえば半沢直樹シリーズなどと比較すると、あっちは半沢直樹に対して具体的な危機を振りかかってきて、それを解決していく、というのがおおまかなストーリーだったのに対して、こっちは純粋に「教授」というゴールのポストがあり、それを目指していくという構造になっているため、少し趣が違う。
ある意味では、決められた椅子を巡って争うという点で、純粋な「権力闘争」のドラマとして見ることはできるだろう。たまたま舞台が大学病院だというだけで、銀行でも、政治家でも、好きなように当てはめて考えることができる。
もちろんドラマなので誇張はされているし、そもそも原作が1960年代を舞台にしているので、リアリティを求めるほうが間違っているが、「教授という椅子をめぐって智略謀略を尽くす」、というのがなんとも滑稽ではある。簡単に言うと、「そうまでして教授になりたい意味がわからない」ということだ。
よしんば教授になれたとしても、そうなったらいよいよ本格的にその「院内政治」の世界にどっぷり身を浸すことになるわけで、大変そうなことこのうえない。まあそんなことを言いはじめれば、大概の権力闘争というのはそういうものなのだけれど。
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先日、安倍晋三元首相の暗殺事件に起因して、「無敵の人」というワードが話題になった。要するに、失うものが何もない人は何でもできる、ということである。この言葉自体は以前から言われている言葉ではあるが、ある種の人間社会の縮図として、話題を呼ぶことがあるのだろう。
その「無敵の人」の観点で言うと、大学病院の教授という立場は、社会的な地位も高いので、「無敵の人」の対極に位置するだろう。「無敵」どころか、ちょっとしたスキャンダルでも地位を追われてしまう、かなり弱い立場だとも言える。人間、いったん手にした地位や名誉を失うほどつらいものはないわけで、そういうことを示唆している作品でもあるのかな、と。
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なんでも折り合いをつけることが大事だと思う。それに、物事の本質を見極めることはもっと大事だろう。
人間は、本能的に闘争が好きなのだと思う。闘争がしたい理由は、本当に欲しいものがあるからではなく、「闘争して、勝利したい」という欲求なのだろう。
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