対立する意見を「理解できない」のはおかしい

日々のニュースを通じて、ワクチン確保や接種のために奮闘している人々の存在を知る。

政府の面々が奔走し疲弊している様子や、すでに多数のワクチン接種が完了しているイスラエルなどの事例を見ていると、「日本のワクチンが行き渡るのはいったいいつになるのか」ということばかり考えてしまうのだけれど、自然と「必要量のワクチンさえ手に入れば、全国民が接種に応じ、コロナ禍は解決に向かうのだ」と思ってしまっていた。

ワクチンさえ行き渡れば、接種するのが当然と考えていたので、「ワクチンを接種したくない人たち」の存在は、思考の枠外だった。

しかし、実際には一定の割合でワクチン接種を拒否する人たちが存在するようであり、「接種したい人たち」の接種が完了したら、「接種したくない」グループの壁にぶちあたることになる。

もちろん、ワクチン接種を法律などで強制することはできないので、どうなるのだろうか、という思いがある。
 
少し視点を変えてみる。

ワクチンを接種したくない人たちは、どういう理屈で接種したくないのだろうか。知人で、「痛そうだから」接種したくないという人がいるのだが、それはいったん脇に置いておく。陰謀論などもあるが、決定的な根拠に欠くものだから、これもいったん無視する。

よく見られるのが、「新しい方式で作られたワクチンだから、どういう副作用があるかわからない」というものだ。日本は、新型コロナワクチンに関しては世界的にも慎重な姿勢であるとは思うが、十分に検証を重ねたとしても新技術によって作られたワクチンで、先行事例がないのは確かであり、どういう副作用が長期的にもたらされるかはまだわからない。


 
コロナを取り巻く社会的な環境がそれほど逼迫しているように感じられない、というのも理由に含まれるだろう。

確かに、テレビなどの報道を見ていると、感染者は増えているし、医療現場が戦場のようになっていることは知ってはいるのだけれど、多くの人たちにとっては自分の家族が感染したとか、近所の大多数が感染している、という「身に迫った」危機的状況ではない(大阪のように、事態が逼迫して医療崩壊の危機が迫っている地域もあるが、東京の危機感はさほどでもないだろう)。

ましてや、パニック映画みたいに、道端に死体が転がっているとか、野犬が暴走して襲ってくる、というようなこともない。だったら、とりあえず副作用の可能性のあるワクチンを打つのは半年後とか一年後にしておいて、ちょっと様子を見たい、という人たちが一定数いても不思議ではない。

そもそも、ワクチンを接種したとしても、自由に外を出歩ける状況にはなかなかならないし、自分がウィルスの媒介になる可能性だってまだあるだろう。重症化する可能性のある人々の接種が進まないのだとすればそれは問題だけれど、重症化するリスクの少ない人々が接種を拒否したとしても、そこまで社会の混乱は生まないのかもしれない。

あまり適当なことは素人の僕が言うことができないけれど、そう考える人たちがいることそのものは想像できる。


 
「ワクチンの接種をしたくない」という人たちがいる、と聞いたときは「なぜ?」と疑問に思うし、「社会の混乱を沈めるためにも、政府がある程度強制力を持たせるべきなのでは!」などと過激なことを思うのだけれど、分解して考えていくと、その人たちはその人たちで理にかなっているのかな、という気もしてくる。

よく、自分と対立している意見の人のことを「理解できない」と表現することがあるが、「理解できない」のは理解力と想像力が欠如しているからではないだろうか。

対立する意見に対しては、せめて「理解はできるが、同意はできない」に状態に持っていきたいものだ。そうでないと、本質的な解決にはつながらないだろう。
 
接種したくない人々がどの程度の割合でいるのか、というのは気になる。そして、その人たちの言い分にも耳を傾けたいと思う。

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