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かつて私淑していた人々はどこに行ったのか?

先日、最近よく見ているYouTubeチャンネルである「ゆる言語学ラジオ」というチャンネルを見ていたら、なかなか面白いことを言っていた。

曰く、理系・工学系の人々は「世界を変えたがりがち」だというのである。特にプログラマー系の人は、「自分のコードで世界を変えてみせるぜ」と意気込んでいるものだ、と。

一方、文学系の学部の人は、あまり世界が変えることに関心はなく、どちらかというと内的世界のほうに関心があり、「世界がどれだけ変わろうとも、自分だけは変わるまい」と抵抗する傾向にある、と。

その性質の違いはなかなか面白い。



ただ、望むと望まざるとにかかわらず、事実として、世界や人はどんどん変わっていく。人間であれば、外見が変わるのは当然のことだし、時間とともに内面も変わっていく。

過去に自分が書いた文章などを読むと、自分がどれだけ変わってしまったか、というのを感じることができる。過去の自分の文章を読むと、発見はあるものの、ちょっと気持ち悪いと感じてしまうことが多いので、めったに読み返すことはないのだが。

しかし、自分の書いた文章などよりも、より自分の変化を感じることができるものもある。それは、自分の「読書傾向」である。

人生のそのときどきによって、頻繁に読む作家というのはいるのだが、ある日を境にパッタリと読むのをやめてしまったりする。

その要因は何だろうか。

ひとつは、続けて本を読んでいくことによって、その著者の主張がだいたいわかってきてしまい、真新しいところがなくなってしまう、ということが挙げられる。しかしこれは、知識がない状態から、知識がある状態に「自分が変化した」といえるので、「自分自身の変化」をここに観察することができる。

変化したのは著者ではなくこちら側なので、かなり一方的な変化といえるかもしれない。

あとは、時間が経つと、その著者の考え方をなんとなく受け入れられなくなってくる、ということがある。飽きたのとはまた違い、自分の考えと違う部分に着目してしまい、全面的に受け入れられなくなってくるのだ。

また、立派な人物だと思っていたものの、自分の思考が育ってくるにつれて、「実はたいしたことないな」と感じてしまう、ということは結構ある。自分の中の「理想像」が変わった、ということだろう。

日本の伝統芸能の修得過程を示した言葉として「守破離」という言葉があるが、最初は師匠の教えを忠実に守り、その次にその考えを打破し、最終的に自分なりの考えを確立して離れていく、というプロセスがあるが、勝手に私淑ししゅくしている人についても同じようなことが言えるのではないだろうか。

自分が成長し、変化していくのは当然のこと。その過程で、かつては尊敬していた人を、そのうち尊敬しなくなってしまうこともあるかもしれない。

「先人を敬え」というのは、そうやって関係性が変わってしまっても、不義理を働くことのないように、という戒めなのかもしれない。

ラーメン漫画「らーめん再遊記」でも、かつてはカリスマラーメン店主として尊敬していた人物が、時代が変わっても手法に固執し、信者ビジネスのようになっている様を芹沢(主人公)らが批判しているが、昔と変わらず尊敬しているように振る舞っている、というシーンがある。


久部 緑郎 (著), 河合 単 (イラスト)「らーめん再遊記(6)」


久部 緑郎 (著), 河合 単 (イラスト)「らーめん再遊記(6)」

そういうことを考えていくと、かつて私淑した人は自分の中のどこに行ってしまったんだろうな、ということを思うのである。自分の中の考えを確立するうえでの一人であることは間違いないのだけれど、その姿はどんどん変形していく。

巨人の肩の上に立つという言葉があるが、「巨人」はそのときどきによって姿を変えるのだろう。

そう思うと、自分の思考が定まらない、変形しうることを許容するのが大事だな、と。

万物は変化するので、それを受け入れることが必要だ。「世界を変えたい」と思う理系はもちろんだが、「世界がどれだけ変わっても、自分だけは変えまいとする」文系にしたって、変わっていく世界に対して変化をしないという選択をする点で、ある意味では変化を受け入れているととも言えないだろうか。

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