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「期待値」で挑戦を測る

またYouTubeで岡田斗司夫の動画を見ていた。

いろいろある動画の中で人生相談みたいなコーナーがあり、例によって歯に衣着せない岡田斗司夫の回答がなかなか面白かった。見ていた動画の相談者は、声優志望の人だった。

なんでも、声優になるために養成所に所属しているのだが、友人がやっている演劇の舞台に誘われており、それに参加しようか迷っている、と。舞台に出ることで経験にもなるし、演技力を磨くことができるのも魅力らしい。

ただネックなのは、舞台に出るとチケットノルマが発生するので、チケットをさばく自信がない、ということだった。
 
それに対する岡田斗司夫の回答はバッサリだった。チケットノルマを気にするようなレベルの低い舞台なら出ないほうがいい、とのこと。また、声優になれるかなれないかは、つまるところ運次第であり、実力が影響する範囲は限定的だ、と。

まあ確かに一理あるのだけれど、そうもバッサリ言われると言われたほうは立つ瀬がない、とは思う。とはいえ、現実の厳しさってそういうものだよな、と。


 
しかし、なんとなく、そういうのって誰しもが身に覚えがあるのではないだろうか。声優に本当になりたいのであれば、わざわざ舞台に出て演技力を磨こうなんて回りくどいことをしないで、さっさとオーディションを受けてしまえばいい。

もちろん、1回や2回挑戦したところでうまくいくほど甘い世界ではなく、何度も何度も失敗しては挑戦する必要があるのだろう。しかし、本当に行動したときのことを考えてみると、やりたいことのオーディションに落ち続けるというのは、本当にしんどいに違いない。

しかし、その魅力のある舞台の話というのは、要するにそういったしんどい現実から逃避しているだけなような気がする。

一見すると、「演技力を身につけたい」とそれっぽく正当化しているけれど、それは本質ではないのかな、と思う。
 
世の中のあらゆることは運次第、と割り切ると楽かもしれない。運次第、というと少し誤解があるかもしれないが、「期待値」で物事を見る、といったほうが適切だろうか。

1回、2回と挑戦して成功することが難しいなら、たとえば10回挑戦してみる。10回でも難しいなら、20回。いくら運要素が強いといっても、20回も挑戦したのならば、それなりに可能性を試したといえる。

しかし、20回やっても何の成果も出ないのであれば、そもそも期待値は自分が想定していたよりもずっと低い、ということになる。

それでも続けるのかは自分次第だけれど、「これだけ挑戦したのにだめだったら、可能性が低かったのだ、と諦めがつく」ということもある。


 
結局のところ、人は「可能性がなくなるのが嫌」なのだと思う。挑戦する余地があるうちは、何度でも挑戦できる。しかし、挑戦を重ねて可能性が減少してしまうと、それだけ自分の人生が狭まったような気がするのだろう。
 
挑戦して可能性をつぶすことは損失だろうか。むしろ、無限にある可能性から、自分を試すことによって残された道を絞り出して見つけていくほうが、充実している人生だと言えないだろうか。

叶うかどうかもわからない、可能性だけの人生よりも、よっぽど「生きている」実感が湧くのではないか、と思う。

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