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不要不急の資本主義

緊急事態宣言が発令されてからしばらく経つ。
 
緊急事態宣言などといっても強制力がないからあまり意味がない、みたいなことを言っていた人もいたが、実際には、それなりに機能していると感じる。
 
そういったものが公に発令されると、まず大企業から自粛を始めて、右へならえで広まっていくので、最終的には隅々まで緊急事態宣言が行き渡ると言う結果になった。

考えてみれば日本は本来そういう社会なので、そういう流れになる事は予想できたはずなのだけれど、実際にそうなってみるまでわからなかった。単純に、街を歩いても人がいない、というのが異世界すぎて、事前にイメージできなかったのだ。

相変わらず電車も人でいっぱいなのかなと思っていたけれど、例年であれば立つことすらままならない混沌のなかで通勤するはずが、今は最初の駅から座れると言う、まさに異次元空間に突入したかのような日々を体験している。
 
必然的にテレワークで仕事する人も増えたのでは、と思う。テレワークにはいくつか段階があって、最初は通勤しなくていいとか、自分の仕事に集中できるとかいったメリット面を感じる余裕があるが、だんだんテレワークで仕事をすることに対して疲れてきて、最終的にはプロジェクトそのものがなくなったりして、自分の仕事が「不要不急」であったことに気づく、という展開を見せている人も結構いるようだ。

だけどそれは考えてみれば当然のことで、資本主義社会というのは本質が「不要不急の社会」なのだ。

僕は資本主義社会というのは、専制君主制の国家や、社会主義国家とは違って、もっとニュートラルで、もっとベーシックな経済体系だと思っていたのだが、世の中がこうも変化していくと、なかなか特殊なものなんだなということがわかってきた。

要するに、生まれた時から資本主義社会で生きてきたので、これが「普通だ」と思っていたということだろう。
 
資本主義社会とは、個々人が資本を所有できるというだけが特徴ではない。最大の特徴は、「あらゆるものが商品になる」ということだ。
 
僕の祖母の世代、つまり戦争を経験した世代は、お茶をペットボトルで飲むのはありえない、という価値観の人が多い。お茶なんてお湯を沸かして自分で淹れればいいだけの話で、本来ペットボトルで買う必要はない。

でも、来客がきたときに出すのにも、自分が持ち歩くのにも、ペットボトルの方が便利だということで、実用性が高いので、結果としてペットボトルのお茶は売れる。

「本来はいらないものなのだけれど、便利で、合理的だから、売れていく」。それが資本主義社会だ。 

最近は家事代行サービスが流行しているが、掃除なんて個々人がやればいいことで、代行サービスに依頼する必要はない。

でも、家事を得意な人に代行させ、浮いた時間で自分が得意なことに時間を費やし、得意なことでお金を稼いだほうがいい、そっちの方が合理的だ、と判断するのが資本主義社会なのである。そして、そういう判断をする人がいる限り、家事代行サービスと言う商売が成り立つ。

言うまでもなく、これも「不要不急」の業態だ。
 
今の日本は「かゆいところがない」ぐらい、あらゆるサービスが行き届いている。家事代行サービスで掃除をしてもらい、Uber Eatsで食べ物を届けてもらい、Netflixで動画を見る。誰かと会話したければそういうサービスもあるし、性的な欲求を満たすサービスすら存在する。

ほとんど、中世で言うならば王族に近い暮らしが可能になったわけだ。もちろん、それは全てを実現するためには金が必要なので、一生懸命になって金を稼ぐ。

だが、逆にいうと金さえあればほとんど何でも実現する、それが資本主義社会なのである。

だから、資本主義社会で成立する仕事というのは大半が不要不急だと言うこともできる。生きるために必要な「衣食住」を賄う業界であったとしても、やはり資本主義社会にドップリと浸かっている、不要不急のもので満たされている。

人は食べないと死んでしまうが、スーパーで売っている食べ物のうち、本当に必要なものってどれぐらいあるだろうか? いまのスーパーで変えるものの大半が「嗜好品」といえるだろう。
 
世界が再び元に戻れば、また不要不急の社会がやってくる。今となっては遠い過去のように思えるけれど。

でも、不要不急の社会で生まれ、生きてきた僕は、これからも社会が不要不急であって欲しい。

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