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退化しているのか、進化しているのか?

数年前までは手書きで文字を書く機会がわりとあったのだが、最近ではほぼ完全に消滅してしまった。仕事関連のメモはすべてパソコンのメモ帳などに書いている。

商談のときにパソコンでメモをとるのはご法度だと以前の職場では言われていたのだけれど、いまの仕事では顧客にデータを見せたりする場面も多いため、すっかりパソコンを開いての商談にも慣れてしまった。

何かの書類などに手書きで文字を書かなければならないとき、あまりにも文字を書くのが久々すぎて、ただでさえ汚い字なのに、さらに「字を書く能力」が退化してしまっていることに気づく。また、手首の筋肉も弱ってきているのか、長時間にわたって文字を書くこともなかなかできなくなった。

文字を書く機会が減ったということは、必要性が薄れているということなので特に大きな問題にはならないのだが、こういう状態になってみると、何か人間として退化してしまっているような気がしてならない。

仕事でもずっとキーボードを叩いており、指への負担は実はキーボードからだけでもそれなりにある。なので、このnoteのようなプライベートな文章を書くときはなるべく負担を軽減するため、ときどき音声入力の機能を使っている。

最近のスマホの音声入力の精度は凄まじく、9割以上はミスなく文字起こしをしてくれる(たまにエラーが起きるが、それは自分の発声ミスに起因するものが多い)。音声入力は入力が速いだけでなく、負担が少ない、というのが一番のメリットのように感じる。

手書きで文字を書かなくなって、さらにキーボードを打つことさえしなくなったとき、果たしてこれは「書いている」と言えるのだろうか、とも思う。平安時代には文字を書ける者が限られていたため口述筆記をさせるようなこともあったというが、その時代の手法に近づいてるような感じがする。

もっとも、いったん音声入力した文章も、そのあと何回もグシャグシャと書き直すので、入力したままの文章が世に出ることはまずないのだが、スマホに向かって話しかけるだけでとりあえず文章が書けるなんて、ひと昔からすると夢のような話だな、と思う。

最近はコンビニでもPayPayで支払うことが当たり前になり、現金で支払ったのはもうずいぶん昔のことだ。たまに飲食店で現金しか受け付けていないところがあるので、そういうときには仕方なく現金払いをするが、飲食店の支払いはたいてい端数がなく、100円単位なので、あまり複雑なことを考える必要はない。

たまに端数のあるちょっと複雑な支払いを現金でしなければならないとき、自分の「お金を数える能力」が恐ろしく退化していることに気づく。PayPayやクレジットカード払いをし始めたころ、たしかにこれは便利と言えば便利だが、そこまで必要かなと最初は思っていたものの、いったん慣れてしまうと現金で払うことがいかに煩わしいことか逆にわかるようになった。また、記録が残らないので、家計簿をつけるのも大変だ。

最終的には音声入力すらもすっ飛ばして、脳に直接デバイスを接続し、考えていることをダイレクトに文章にしたりするようになるのだろうか。そんなにダサイ見た目ではなく、例えばメガネのようなスマートな見た目のデバイスを装着して、念じるだけで「文字を書く」日はそのうち来るのだろうか。

昭和のエッセイなどを読んでいると、本来は漢字で書くべきところをカタカナで書かれている単語が目だったりするのだが、あれは多分原稿用紙に手書きで書いていた時代なので、漢字を書くのが面倒くさいときにカタカナで書いたりしていたんだろうなと想像している。

その観点で考えると、例えば僕のエッセイなどでも手書きでは到底書く気もしないような漢字を書いたりしてるので、そういう面では、デバイスの進化の賜物と言えなくもないかもしれない。

あまりにも手書きで書く能力が退化すると嫌なので、時々手書きで日記を書いてやろうかなどと思いついたりするのだが、一旦楽な方法を使い込んでしまうとなかなかそこから脱却できないものである。便利な方法を知ってしまうと、そこから抜け出すのは難しい。

もっとも、これだけの長さの文章を原稿用紙に毎日書くことは不可能なので、やはり文明の利器による恩恵は大きいとは言える。文明の利器によって、果たして我々の能力は退化しているのか、それとも進化しているのか?

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