見出し画像

卑屈と自虐と無我の境地

世の中には一定数、「卑屈な人」がいる。卑屈な人とは、自分のことを必要以上に低く言う人のことだ。

それが適度であれば「謙遜している」ということになるのだけれど、なんか必要以上に自己評価が低い人、というのはいる。そういう人のことを世間では「卑屈な人」と呼ぶ。

最近、「卑屈な人」と「自虐的な人」の違いについて考えた。自虐的なことを言う人は、自らのダメなところをネタにして、周囲を楽しませよう、という雰囲気がある。

銚子電鉄という私鉄があるのだが、経営状況がまずい、という自虐的なことを常に発信しており、それが面白い。

なぜ自虐はよくて、卑屈はあまりよくないのだろうか。

考えて思ったのが、「卑屈な人」って別に自己評価が低いわけじゃないんだろうな、ということだ。自分のことを必要以上に低く言うことで、「そうじゃないよ」と言ってほしい、という甘えた本音が透けて見えるのだ。

僕はわりと正直なタイプなので、相手が自己評価を低く言ってきても「そうじゃないよ」などとは言ってあげないので、なんか相手として「違うな」となり、噛み合わないのかもしれない。

それに加え、はじめから自分のことを低く言うことによって予防線を張っているのかもしれない。失敗したときにあれこれ言われないために。

そうやって考えていくと、結局卑屈な人は自分を守ろうとする姿勢、自分の能力を認めない傾向にあるのかな、と思った。そこが自分が卑屈な人が苦手な理由だ。

だいぶ昔の話なのだが、一緒に働いていた後輩でA君という子がいた。A君は大学を留年したらしい。なんで? と聞いてみると、パチスロにハマったからだ、という。

儲けまくっていたとかそういうことではなく、結構負けていたらしい。ただ、パチスロに行くうちになんとなく学校に行かなくなり、気づいたら単位が足りなくなっていた、と。お金もバイト代だけでは足りず、親からもらった金を使い込んだり。

卑屈とか自虐とかではなく、こちらから話を振らないと出てこないのだが、聞けば結構なクズエピソードが普通に出てくる。これはすごい、と思った。しかも別に感情をこめて話すとかでもなく、誰かのせいにするとかもなく、ごく普通に淡々と話す。

自らそういったことを吹聴しているわけではなく、あくまでこちらから話したときに出てくるだけなので、自分から発信しているわけではない。なので、事前に予防線を張っているわけではない。普通に任せた仕事を、普通に失敗する。しかも言い訳をすることもなく、嘘をつくこともなく、淡々と報告してくる。なんなんだこれ、と。

実態としては良くないのだが、別に卑屈なわけではない。不思議なメンタルの持ち主だった。

自己評価が正しいというのか、自分を大きく見せないというのか、なんというか。自分はわりとそういう性格の人は好きなので、結構可愛がっていた記憶がある。周囲からもわりと可愛がられていたように思う(女性からは結構キモがられていたが)。仕事は全然できなかったけど。

結局、卑屈な人は「自己中心的」なんだろうな、と思う。失敗を恐れて、予防線を張って、過度に自分を守ろうとしてはいけない。A君は全く自分を飾らない性格だったのだけれど、あれはなんだったのだろうか。

いま思い返しても、あのレベルの人は彼しかいなかった。ある意味では無我の境地というか……。無私の境地を体現していたのだろうか。

あなたはどう思いますか?

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。