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指してみないとわからない

「最近、将棋にハマっている」ということが周囲にも知れ渡りつつあり、リアル友達に会ったりするタイミングでも話題にしたりするのだが、反応はいまひとつである。「なんで急にハマったの?」「何が面白いの?」みたいな、そんな温度感である。

まあ、ニンテンドースイッチのゲームみたいに真新しいものではないし、やったことのない人にとってはちょっと敷居が高そうな感じもあって、とっつきにくいのだろう。

しかし、とにかく競技人口が多く、ネットに繋げば常に数千人は人がいるという状況で、対戦相手に困るということは一切ないので、特に問題は生じていない。

例外は自分の奥さんで、自分と同じ時期にやりはじめたのだけれど、自分よりもはるかに指し込んでいる。夫婦でハマった趣味、というのはなかなか貴重である。

ある友人は「将棋を指すよりも、語学など、もっと本質的なことに時間を使いたい」ということを言っていた。確かに、それはひとつの考え方としては真っ当かもしれない。

僕はいまでもブログを書くことと読書をすることは趣味としてこれまで通り継続しているが、従来プログラミングの学習に充てていた時間を将棋に費やしている。たしかに、はたからみると、プログラミングの勉強をしていたほうが有意義だったのでは? と言えなくもない。

将棋の楽しさは、将棋を指さないとわからない。「頭を使うから」や「いろんな人と交流できるから」、などと、理由を見つけようとすればいろいろあるのだが、どれも後付けである。「指すのが楽しい」、それがシンプルにして最大の理由だ。

「頭を使う」という点にフォーカスすれば、ナンプレでもパズドラでもいくらでも方法はある。しかし、「将棋の楽しさ」は将棋を指すことによってしか得られない。代替は不可能なのである。

とはいえ、「将棋を指すのは楽しい」が、「常に最高の気分になれる」というわけではない。実際のところ、将棋の道はなかなか険しく、むしろつらいことのほうが多い。

将棋の負けが込んでくると、ちょっと寝つきが悪くなるぐらいつらい(本当に)。将棋アプリを通じてマッチングしているので、概ね同じぐらいの実力の人と当たるようになっているので、だいたい勝率は五分五分ぐらいである。とんでもなく楽しいだけで終わる、という日はまずなく、大半は悔しい思いを噛みしめることになる。

しかし、一か月経つと少し上達している気がする。そうやって、上達を楽しむのが本来のあり方なのかもしれない。しかし、「上達した先に何があるの?」と言われると、「別にない」というのが実情ではある。ちょっと意味が広すぎるかもしれないが、「人生が豊かになる」。得られるものはそれだけである。

それをやったことのない人に、「それってなんの意味があるの?」と言われても、自分が「楽しい」と思えることが、本当の趣味かもしれない。いわば、それは何かを達成するための「手段」ではなく、それそのものが「目的」だからだ。

僕にとっても、「それって何が楽しいの?」「何の意味があるの?」と感じることはたくさんある。それは、それを楽しんでやっている人たちにとっては、「目的」そのものなのだろう。

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