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「自分が代替可能」だという事実に人は耐え切れるのか?

「プロ格闘ゲーマー」という職種の人たちがいる。僕は格闘ゲームをやらないが、そういう仕事の人がいることは知っており、日本ではじめてプロゲーマーになった、梅原大吾という人のことは結構前から注目している。

↑これは「プロフェッショナル仕事の流儀」風に作られたパロディ動画である。その後、本当に出演したのだけれど、このパロディのほうがかっこいい(使われている動画が全盛期のものだというのもあるが)。

彼は彼の半生を描いたビジネス書寄りの本を何冊か出版しており、それ経由で知った。最近はウォッチしていなかったのだが、久々に動画だったりを見たりして、思うところがあった。

やはり、道なき道を切り開いてきた人はすごいな、と思うのである。

どんな世界にでも共通して言えるのだが、「第一人者」というのは、能天気なものではない。昔、村上龍が言っていたのだが、「ファミレスでメニューを選ぶように」その選択をしたわけではないのだ。第一人者ということは、要するに道が整備されていないわけだから、道をつくるところからはじめなければならない。はたからみると、道を外れて、薮の中を突進していっているわけだから、狂人そのものである。

まだそういう職業の人が存在していないうちは、どうやったらそういうものになれるのかのルートは用意されていないし、もちろん専門学校などもない。 その分野で間違いなく世界トップレベルの実力があったとしても、「これでいいのか?」という葛藤とともに、少しずつ進んできた感じなのだろう。

梅原大吾は格闘ゲームの世界において、十代のうちから世界大会を制覇するなど、余人をもって代えがたい成績を残していた。しかしそれでも、プロという概念がまだないころだったので、賞金などはあったにせよ、金銭的な見返りには結びつかず、「本業」を見つける必要があった。

最終的には介護の仕事をやりはじめるのだが、ゲームを離れて、介護の仕事をしてみて、いろいろと発見があったようである。それまでは「勝った、負けた」の世界で生きてきたので、「敗者は何も掴めない」と思っていたのが、「普通の仕事」には「勝ち負け」がないことが衝撃的だったのだとか。

数年のブランクを経て、友人に誘われたことをきっかけに気晴らしのためにふたたびゲームをはじめ、招待された世界大会でまた優勝してしまう。そして、生活のためにゲームに専念できないという環境が明るみに出ることになり、スポンサードしたいという会社が現れて、マネジメントしてくれる人もつき、「プロ格闘ゲーマー」という存在になって今に至る。

こうして文章で要約するとシンプルなのだが、いろいろな思いがその過程にに込められているのだろう。介護の仕事をやっているときはそれなりに安定していて、勝負の世界から離れたことで回復できた部分もあったのだという。しかし、世界大会で優勝するほどゲームの世界では特殊な存在なのに、介護の仕事、誰でも代替できる仕事をしている、という事実はつらかった、とのちに語っている。

もちろん介護の仕事は誰でもできるというわけではないが、プロ格闘ゲーマーと比較すると「代替しやすい職業」ではある。お前の存在はいつでも、いくらでも「代替可能」だというのは、どんな人にとっても耐えがたいのではないだろうか。「お前の代わりなんていくらでもいるんだよ」という罵倒の言葉があるが、これは効くだろう。

資格や学歴をよりどころにして、いわゆる「エリート」を標榜している人だって、同じ資格、同じ学歴を持っている人はほかにもいるわけだから、代替可能なのだろう。いわゆる「勝ち組」だって、代替可能ではないか、という事実を示している。

代替可能であるというのはつらいことだが、代替可能でない人なんていない、というのも事実である。誰でも代替可能であるのは前提として、「役割ロール」と考えるといいかもしれない。

小学校ふうに言うならば、「係」である。いまは自分がこれをする係なんだ、と思うと、何をすべきか見えてくるのではないだろうか。

プロゲーマーの係は、そうたくさんはいらないだろう。だからこそ、狭き門なのである。しかし、それに見合う能力のある人ならば、その役割を担うことができる。


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