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夢の日記をつけると狂うのか?

都市伝説として、「夢の日記をつけ続けると、そのうちその人は発狂する」といったものがある。まあ、都市伝説なので真偽はさておき、そういう話があるようだ。

そういえば、「ゆめにっき」という名前のフリーゲームもあったぐらいだし、夢の日記をつけるのは危険な行為だ、という考え方があるらしい。

ネットを周回していたら、夢日記を実際につけてみた人の記録があった。

夢日記をつけることによって、だんだんと変化していくのが面白い。最初は、夢そのものの解像度の低さがわかるようだ。実際、朝起きて、夢について記憶していることは実はほとんどない、ということに気付くのだという。

僕の場合、夢はけっこう見ているのだが、言語化できるようなまとまりのある状態で覚えていることは少なく、もっと抽象的で、口に出すと消えてしまいそうな「イメージ」のような状態のことが多い。

夢日記をつけていくと、だんだん、夢についての記述が具体化していくらしい。解像度が増していくというか。最初は1行ぐらいだったのが、だんだん書ける分量が増えていく。

非現実的な夢の場合は問題ないのだが、現実にありそうな状況の場合、だんだん夢で起きたことなのか、現実に起きたことなのかの区別がつかなくなっていく。こうなると結構怖い。記録をとることによって、夢で見た幻想が記憶に定着してしまう、というような弊害もあるだろう。

夢はなぜ夢だと認識できるのだろうか? なんだか、今敏こんさとしの映画のテーマみたいだが、どうしてなのだろうか。

まず大前提として、「非現実性」が夢を夢だと認識させるのでは、と思う。明らかに現実と乖離している出来事の場合、現実との整合性がとれないため、夢だと認識することができる。なので、それは現実世界に戻ったあと(目覚めたあと)どんどん忘れていく。

逆にいうと、現実に本当に起きそうな夢は、夢だと認識することが難しい。上記の記事にある通り、現実世界の記憶と混ざってしまい、日常生活に支障が出る。

そこでふと思いついたのが、誰しも子どものころに「ちょっと不思議な体験」をしたことがあるは思うのだが、実はそのうちの一部は「夢」だったのではないか? ということだ。

大人になり、常識が身についてくれば、夢を夢と認識することができるが、子どものころは夢を夢だと認識していないがゆえに、夢であった不思議な体験をそのまま現実世界の出来事として認識してしまう、そういうことはあるのではないだろうか。

そういうのでなくとも、仕事などが忙しすぎて、昼夜逆転したような生活をしていると、何が現実で、何が夢かがだんだんわからなくなっていく。仕事でしなければならない確認事項を、夢のなかでやったと勘違いしてしまったりだとか。

それはちょっと極端な例だけれども、現実にそういうことはある。それも、「夢を夢だと認識できなくなってしまっている状況」とはいえないだろうか。

人間の記憶というのはかなり不正確だし、都合よく改変したりもする。だからこそ、記録に残す必要がある。しかし、夢のような嘘の記録を残すことによって、認識も歪んでいくのではないだろうか。このことからも、夢を記録するというのは、かなりリスキーな行為だということがわかる。

結局、日常生活をきちんと送れているのは、「常識」というものを理解しており、それによって「現実」と「妄想」が区別できているから、ということになる。何かの拍子にそれが壊れてしまうと、日常生活に支障が出てしまうのだろう。

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