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「そして」問題

小学生の頃、「あのね帳」というものがあった。ネーミングの由来は、「先生あのね」と、先生に語りかけるように日記を書いてほしい、というような感じだろうか。要は、作文の練習として書くもののようだった。

「あのね帳」はネーミングからして小学校低学年向けで、長じるにつれていつのまにか使わなくなったように記憶しているのだが、配布されたのは小学校一年生の入学時だったと思う。当時は作文の経験などないわけだから、おそらく文章を書くこと自体はじめてだったと思うのだが、それほど苦労した覚えはないので、きっと最初からそれなりに得意だったのだろう。

ただ当時、ちょっとした悩みがあった。小学生の作文というと、文章力はみんな似たようなものだと思うのだが、自分の文章は接続詞に「そして」が頻発していたのである。というより、接続詞はほぼそれしか使っていなかった。

朝ごはんを食べました。そして図書館に行きました。そしてプールに行きました。みたいな感じの文章である。考えてみれば、小学生はほぼ接続詞を使わずに会話をしているので、文章での使い方がわからないのだろう。未就学児でも使う接続詞は「でも」ぐらいだろうか。なので、「そして」以外を使うにはどうしたらいいのだろう、と当時は思っていた。

図書館などで借りてくる本には「そして」はほとんど使われていなかったので、それとのギャップを感じていたのかもしれない。でも、どうすればいいのかはよくわからなかった。

しかし、いつの間にか「そして」を作文で使うことはなくなり、それなりにまともな文章を書けるようになった。もちろん、こうして更新しているnoteでも「そして」の頻度は少ないだろう(というか皆無では?)。

要は、文章の論理構造を知らずのうちに身につけていった、ということなのだろう。「そして」でしか文章を繋ぐことができないということは、論理構造としては事実の羅列、箇条書きしか使えない、ということである。そもそも、その構造なら「そして」すらも不要である。

多少なりとも文章が書けるようになった30代ではあるが、「そして」の頻度こそ減ったものの、初稿の段階での接続詞はかなり適当である。「しかし」が4回ぐらい連続することもある。

そもそも、口語では接続詞は省略可能なので、文章を書くうえではじめて顕在化する問題だといえるだろう。「でも」や「だけど」なども、口語で聞いていると必要のないところで頻用している人は多い。こういった接続詞のちゃんとした使い方も、大学入学後ぐらいから学びはじめたような気がする。

小論文などを書く人であれば、その過程で身につけるのだろうか。ただ、そういった訓練をすっ飛ばしていると、一生身につかないような気もする。まあ多くは、就職してから自分があまりにも文章が書けないことに衝撃を受けたりするものだが。

日本語は結構適当な文法でも通じる言語だが、英語はこの手のルールは厳しいほうである。接続詞をちゃんと習得しないと、ちゃんとした文章にならない。

前職では、基本的に英文でメールを書く仕事だったので、英語の接続詞の一覧を印刷して、机の前に貼っていた。”furthermore”とか”therefore”とかを使いこなせるようになると、なんだか急にかっこいい文章になる。

考えてみれば、プログラミング言語も英語である。日本語でプログラミングできる言語も存在していたようだが、全く流行らなかったようだ。英語は日本語よりも論理構造を大事にする言語というのが、プログラミング言語として定着していることからもわかるだろう(もちろん、英語が覇権的言語であることを前提としてだ)。

文章が書けない、という人は、接続詞を適切に使えるようにするといいかもしれない。それは、文章の論理構造をしっかりと組み立てることにもつながる。


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