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「言い方の問題」封印

人は日常的に、いろいろな事情で怒る。そのなかでも、怒りの要因としてそれなりの割合を占めるのは、「あんな言い方しないでもいいのに」という怒りだと思う。

僕は何年か前にこれに気づき、以来自分ではなるべくこれを言わないように封印している。心の中で思ってしまったときも、気づいたらそれを打ち消すようにしている。そういう意味では「座右の銘」と言えるだろうか。それを意識するだけでだいぶ変わるものだ。

他人に対して、「あんな言い方しなくてもいいのに」と怒ったことはあるだろうか。身の回りを観察してみると、女性がこれを言う比率が多いイメージがある。が、もちろん男性でも皆無というわけではない。この言葉には、どの程度の妥当性があるのだろうか?

論理的に考えると、「あんな言い方しないでもいいのに」と怒るのは、相手の「言い方」の部分を非難しているだけであり、言われてる内容には納得している、ということになる。なので、これは内容に関する反論ではない。したがって、言われている内容は実は結構正論だったり、自分でも図星だったりするのではないだろうか。

「あんな言い方しないでもいいのに」と怒るのは一体どういう感情なのだろうか。まず最初に考えられるのは、自分が聞きたくないことを言われた、と感じることだろう。それはつまり、耳あたりの良いことしか聞きたくないということになる。

もっと優しく自分に接してほしい、という要求になるだろうか。しかし、社会にはあなたに優しく接する義務はない。常に優しく接してほしいという願いが通るのは子どもだけだ。

他にも、解釈の問題だったりすることはある。例えば、「お前、嘘つくなよ」と言うと喧嘩になるが、「お互い、正直にやろう」と言えば角が立たない。要するに「嘘つくなよ」と言っていることに変わりはないのだが、ちょっとニュアンスが変わる。

他には、例えば子供を評するときに「落ち着きがない子ですね」と言うと相手の気分を損ねてしまうので、「すごく元気な子ですね」みたいな感じに言い換えたりすることもあるだろう。

しかし、これも行きすぎると京都人の会話みたいになり、逆に難しくなる。「ピアノが上手ですね」と言われたら、「ピアノうるせえ」と解釈しなければならない、というようなやつである。京都人独特の高度なコミュニケーションは難解で、しばしばネットでもよくネタにされる。

いずれにしても、相手がどういう言い方をしたか、みたいな瑣末な問題でいちいち怒るのは生産的ではない。むしろ相手がオブラートに包んだことしか言わない方が、日常生活においてはデメリットが大きいのではないか、と思う。

考えてみれば、自分の周りの人間関係を考えても、ストレートに言いたい放題言ってくる人は、最初はムカっときて仲良くなれないものの、長期的には信頼がおけるというケースが多い。シンプルでストレートにものを表現する人が多いので、裏表もないし、一緒にいて疲れない、ということが要因としてあるのだろう。

外国人と英語でコミュニケーションをとるとき、ストレートにシンプルな言葉で物事を伝えるので、気持ちが良いということもある。そういった経験が、僕が「言い方の問題」にこだわらないようにしていることと関わりがあるのかもしれない。

もちろん、世の中の大半の人が「言い方」によって怒りを感じるということを理解してるので、自分からはなるべく他人をわざわざ怒らせるような事は言わないようにしている。

しかし、仮に他人からそういったことを言われて気になったとしても、なるべく声には出さないようにしてるし、自分の心の中で思っても打ち消すようにしてる。

これを気をつけるだけで、怒ることも減ってくるし、人生が変わるような気がしている。何かを言われたら、言い方にケチをつけるのではなく、内容そのものをストレートに受け取りましょう。


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