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「子どものように絵を描く」こと

著名な芸術家であるパブロ・ピカソは、非常に作品点数が多いことで知られている。生涯で制作した作品点数は、なんと15万点もあるらしい。

しかし、広く世間に知られているのは「ゲルニカ」や「アビニョンの娘たち」などの作品であり、ごく一部である。正直に言って、僕もそれぐらいしか知らない。

箱根に行った時、ピカソの作品が収蔵されている美術館があり、そこでピカソの作品を何点か見た。当然だが、それほどメジャーな美術館ではないため、収蔵されている作品もマイナーなものばかりで、知っている作品はひとつもなかった。

15万点も作品があるので、知らない作品のほうがはるかに多いのは当然で、知っている作品があるほうが奇跡というものだろう。

よくよく考えると、15万という作品数は尋常ではない。一年は365日なので、100年は約3万6500日である。15万という作品を作るためには、一日に1作品どころではなく、日々10作品ぐらいは作らないと追いつかないのではないだろうか(物理的に制作できない日のことを考えたら)。もちろん、何週間、何ヶ月もかかる力作もあることだろうが、それでいてこの量である。

しかし、それでもよく知られているのはそのうちのほんの一握りである。どんな有名な画家でも、よく知られている絵は10枚もない。そういう現状について、芸術家はどう捉えているのだろうか。

クリエイターあるあるとして、「力を入れた作品ほどあまり支持されず、適当に手を抜いた作品ほど支持される」というものがある。これは、「気合いを入れてものをつくるよりも、肩の力を抜いて作ったほうがいいものができるのだ」と解釈されることもあるのだが、僕は違うと思う。

そうではなく、ただ単にバイアスがかかっているだけなのだ。つまり、「これだけ苦労して作ったのだから、これはいい作品に違いない」というバイアスを自分自身にかけているのである。実際の作品のクオリティは、自分の努力した量とは全く違うところにある。

僕も毎日文章を書いているし、曲も何百曲と作ってきた。小説も何作も書いた。それぞれについて苦労した点があるので、思い入れはそれなりにあるのだけれど、すべての作品が、受け手に同じように扱われることはない。

それなりに支持されているものはやはり少数で、それらの作品だけが、ぽっかりと宙に浮かび上がるように存在しているのだ。

ピカソは、晩年はグジャグジャの絵を描きながら、「この年になって、やっと子どもの絵が描けるようになった」と言っていたそうなので、そういったことを気にせずに作品を作り続けたのだろうか。

「支持されるかどうか」という気持ちから解放されることが、すなわち「子どもの絵を描く」ということなのかもしれないが。

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