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「論破の技術」はいらない

漫画家の山田玲司が「論破は幼稚」だとしている動画を見た。

まあ、内容としては概ね同意である。ひろゆき氏の「論破」については、自分の記事でも以前に取り上げたことがある。

いつぐらいに書いたんだったか、と思ったら2年前の記事だった。月日が経つのは早いものだ。

動画によれば、「日本ではスポーツとしてのディベートが根付いていない」ということだった。つまり、ディベートというのは哲学などにおけるある種の「手法」であり、議論を重ねてよりよい結論を導き出そう、というやり方である。

その素地がある西洋社会だったらいいが、日本社会ではそもそもディベートが根付いてないのだから、難しいだろう、というのである。

確かに、日本社会はディベートによって結論を出す文化は薄い。どちらかというと儒教的な世界観というか、「年長者(目上の者)の言うことをきく」という価値観で社会がまわっている感じがする。

それでいいのか、という意見はもちろんあるかもしれないけれど、逆にいうと年長者は物事を決定して、その責任をとったり、経験をもとに判断することを求められているのだから、役割分担だともとれる。若年者はそれを見て学び、いずれはその立場になる、ということである。

とはいえ、昔の日本人が本当に目上の人に意見を言っていなかったのか、というとそれはわからない。豊臣秀吉とか、もともとは低い身分の出身だったわけで、殿様に意見を言ったといった生意気エピソードは結構残っている(本当かどうかはわからないが)。

まあ、そういった意見を取り入れ、実際に物事を決定するのは上層なわけで、それも役割分担だといえるが。

いずれにしても、大人になったら「論破」など論外である。どんな大人もメンツというものがあるので、不用意に他人のメンツを潰してはならない。無駄に敵を増やすことになり、やりたいこともできなくなってしまう。

ディベートの「スポーツ化」というところでも書いたが、西洋社会ではディベートが根付いているので、激論を交わしたあとに仲良くランチに行ったりすることもあるというが、それはスポーツとして互いにルールを守ったうえでやっている、ということだろう。

日本だと、議論がスポーツ化していないので、どうしても素手で殴り合うようになってしまう。そもそも、感情に任せて怒鳴り合う、みたいな状態になるともう終わりである。「議論を重ねて、より高いレベルの結論を出す」という目的が意識されていない議論は何も生まない、ということだろう。

そもそも大人の世界では論破の必要すらない、ということもある。なにか議論をしたり、交渉したりする場は、なんらかの合意形成をすることが目的なので、「相手を論破する」ということはそういったことを放棄するということだ。

どちらかというと、「どうでもいい相手」はとりあえずヨイショして、波風立たないようにする、という行動をとるのがいい。

久部 緑郎, 河合 単「らーめん再遊記(6)」

小学生ぐらいだったらまだいいけれど、中学生以上になったら卒業すべき感覚だろう、と。そのままの感覚で大人になることはないだろうが、どこかの段階で気づくべきなんだろうな、と。

ひろゆき氏は、ネットを介してライブ放送をしているだけで、社会のどの部分にも関わっていない。いわば「永遠の子ども」のようなもので、なんの合意形成も必要ない。だから「論破」といった幼稚なことが許されるわけで、大多数の大人はそういう立場ではないだろう。

僕も、このnoteに書いていることは「社会と接点をもたない側面」として書いているのであらゆることを好き勝手に書ける。勤めている会社の会社員の立場としては、言えることと言えないことがある。

当然ながら、仕事のうえで誰かと議論したり、交渉したりすることはあるが、「論破」することは皆無である。

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