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「食べるところを見たい」欲求

結婚して、以前と変わったなと思うことのひとつとして、「食事」がある。僕は在宅勤務が多く、奥さんは最近は出勤することが多いので、昼食は別々だったりするのだが、朝は一緒に食べるし、休日はほぼ一緒に過ごしている。

たまに自分が外出した際に、おいしい店に入ったりすると、ぜひ奥さんにも食べてほしいと思う。いま、自分だけが食べている状態の店が何店舗かあり、いつかは奥さんを連れて行きたいと思っている。

この前、池袋のおいしいラーメン屋を会社の同僚に紹介してもらったので一緒に行ったのだが、そういったものがひとつでも消化できて嬉しく思っている。

なんというか、もはや自分がおいしいものを食べる以上に奥さんがおいしそうに食べているのを見る方が満足度が高い状態である。もちろん自分でおいしいものを食べるのも幸せだけれど、食べているところを見るのもいい。

僕は料理を作らないのだが、料理を作った人が人に振る舞ったとき、おいしそうに食べてくれるのが嬉しいという感情と似ているのだろうな、と思う。SNSなどに食事の写真をアップロードしたりするのも、それにつながった行動なのでは、と思っている。

おそらく、これは本能的なものなのだろう。狩猟採集時代は、男は集団で狩りに行って獲物を村に持ち帰り、それを調理してみんなで食べたはずだ。

男たちが村に帰る前に自分たちだけで食べてしまうのではなく、村に持ち帰ってみんなに食べてもらう。そのこと自体が喜びを生むようにプログラミングされているのだろう。

そういう意味では、僕の感情は人類としてあまり違和感のない感情だと言えるかもしれない。

流行のYouTuberの動画などを見ると、定期的に大食いの動画をあげているグループは多い。客観的に考えると、他人が大食いしてるところなんて見ても何が面白いのかよくわからないのだが、なんとなく見てしまうことはある。そういう人は多いのではないだろうか(だからこそ、コンテンツになっている)。

これは結構不思議な感情である。最近だと、とにかく飯を食うところをメインコンテンツにしているYouTuberがたくさんいるらしい。映画監督の押井守も、おっさんがひとりで休日に酒を飲みながら外食をする動画が好きだ、というのを著書で書いていた。まあ、意外な趣味ではある。

ビジネスでは、関係性を深めるために会食をすることがあるが、一緒に食事をとると親しみが増すのだろう。本来であれば「近しい間柄だからこそ食事をする」のだが、「食事をしたことで近しさを感じる」という作用を期待している。なんだか逆説的というか、順番があべこべのような感じもするが、そういう作用を狙っているに違いない。

僕は酒が飲めないので、飲み会の席などでバンバン酒を注がれると困ってしまうのだが、「いい飲みっぷり」の人がそういう会では中心の存在になるように、「飲む、食べる」ことはそれを人に見せることで価値があるのかもしれない。俯瞰してみると、人類の感覚のバグというか、へんな習性である。


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