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「探しもの」は「考えること」ではない
ドリームインキュベーターという戦略コンサルの人が書いた記事を読んだ。「ものを考える」ということについての記事だ。
「作業のときは息を止める」だったり、「意図的にボーッとする」など、なんとなくややピンとこない部分も含まれているのだが、「思考する」という部分にフォーカスして考えてみる。
これを読んで、そもそも「考える」行為は一日のうちでどれぐらい出来ているかな、と思った。仕事では、確かに考えているようでいて、実質的に「考えている時間」はほとんどないような気がしてくる。一日、僕はパソコンを睨みながら、一体何をしているのか?
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仕事で資料などを作成するとき、実質的に自分がやっている作業の大半は「探し物」だろうな、と客観的に考えて思う。
何か新しい資料を作成しなければならない、とする。最初にやりはじめることは、類似の資料を探してくることだ。まったく同じでなくても、「この資料の型は使えそうだな」というのを探し出してきて、数字や文言を改変して資料に仕上げていく。
まあ、だいたいはこういう作業で事足りるものだ。このほうが効率がいいし、上司のチェックを通過する可能性も高まる。
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しかし、こうやって仕事をしていると、本当に自分が「考えなくなった」ことに愕然とすることもある。なんとなく忙しいとき、メールやチャットの欄を無意味にいったりきたりして、結果一時間ぐらい何も生産していない、という状態になるときがある。この状態のとき、果たして自分は「仕事をしている」んだろうか、と。
なぜ「考える」ことが難しいのかというと、シンプルにしんどいからだろう。思考はそれなりにエネルギーを使うので、本能的に「考えること」は忌避される傾向にある。階段よりエスカレーターを、エスカレーターよりエレベーターを使いたい、というのと同じことだ。
あと、何もないかもしれないところから何かを考え出すというのは苦しいから、というのもある。例えば、営業成績を上げるのでも、トラブルを解決するのでもなんでもいいのだが、アイデアのネタがあるうちは特になんの苦労もなく取り掛かることができる。
しかしアイデアが枯渇したとき、つまり打ち手がなくなったとき、はじめて「考える」必要が出てくる。しかし普通に仕事をしていたら、打ち手が全部なくなって、どうしようもなくなる、という状況はきわめてピンチである。そういった危機の中で、なんとか現状を打破するために、乾いたぞうきんを絞って、無い打ち手を考えなければならない。
確かにこれはしんどい。もう無い、あるかどうかもわからない、という状況で考えなければならないからだ。しかし、ここで踏ん張って考え続けられるかどうかが分かれ目である。
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戦略コンサルは、優秀な学生に人気の職種というのは聞いたりするけれど、めちゃくちゃしんどいんだろうな、と想像する。正直、アイデアだけなら、普段から実務をやっていて、経験が深いクライアントのほうが100倍持っていると思う。
ちょっと頭をひねって考えた程度のアイデアは、それこそ100年前に検証済みで、なんなら実行したけど意味がなかった、という社内の黒歴史すらあったりするのではないだろうか。なので、そういうものからはそもそも離れた、さらに密度の濃いアイデアを出す必要がある。それには粘り強く考えることが必要で、だからこそ、こういう「考える姿勢」というのが必要になるのだろう。
何か課題を解決するとき、探し物をはじめたら要注意、と思うようにしている。とにかく、考えるときは紙とペンで、何も参照せず、自分が考えるままに考える。探し物はそのあとだ。
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