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天才も凡人も、最初はひらめきから

久々に帰省することになり、せっかくなので将棋盤を持って帰った。父が将棋を指せるかもしれないということで、もし指せるのならば一局指そうと思ったのだ。
 
実際、父は会社などでたまに指したりしていたようで、対局はできるということだった。とはいっても対局自体は数十年ぶりということで、さすがにこちらに分があると思って指し始めたところ、全然勝てなかった。僕と奥さんで合計3局ずつ挑戦したものの、1勝もできなかった。一局だけ、いい線まで行ったところはあったけれど、全く歯が立たない一局もあった。
 
僕は結構、将棋の勝率には波があるほうである。勝てるときは連勝できるが、勝てないときは全然ダメだ。そのときのメンタルというか、コンディションが影響しているように思うのだけれど、敗因が「精神力」というのではなんとも情けない。

しかし、勝っているときは相手が誰でも勝てるような気がするし、負けているときは相手が誰でも敵わないような気がするのである。
 
最近実感するのだが、将棋は、「手が見えるかどうか」というのが勝負の大部分を占めている。よく、「手を読む」と言うが、実際のところは、ゼロベースで手を検討していくというよりは、まずは直感で「見える」ところからはじまるのであり、具体的に手を読んでいくのはその次の段階である。

調子がいいときは、自分の弱いところや相手の弱いところが見えるようになるので、勝率が高くなる。全然勝てないときは、なぜか視野が狭くなっていて、何も見えていないので、ウッカリ駒を取られてしまったり、予想もしていない痛いところに駒を打ち込まれてしまったりする。

極端な話、弱くて何も見えていないときは目隠しをしているようなもので、そんな状態では勝てるわけがない。なので、僕は一日に3回負けたらそれ以上は指さないようにしている。

今日は実戦の調子が悪い日だと思ったら、別の勉強に切り替えたほうが効率がいいからだ。

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インドの数学者に、ラマヌジャンという若者がいた。彼はちゃんとした教育を受けたことがなかったが、数学の天才だった。

夜寝ると、女神様が夢の中に現れ、数学の新しい定理を教えてくれる。彼は起きてからそれを紙に書きつける。このやり方で、どんどん数学の新しい定理を発見していった。

数学というのは定理を思いついただけではダメで、証明をしなければならないのだが、彼にとっては定理は女神様が教えてくれたものなので、証明する必要性を感じていなかった。

そこで、彼の才能を発見したハーディというイギリスの数学者によって、彼の発見した定理が次々と証明されていき、今でも天才数学者としてラマヌジャンの名前は残っている。「天才」というものを考える時、彼抜きには考えられないようなエピソードである。


 
なので、「天才と凡人の違いは、ロジックを飛び越えて思考できるかどうか、なのでは?」というのが自分の中に仮説としてあった。しかし、凡人でも、理屈よりも先に「ひらめき、直感」がくるのだ、というのを将棋を指しながら実感した。

まず直感によって手が「見え」、それが本当に正しいかどうかの「読み」はあとからつけていく。理屈で手を読もうとしても、選択肢が多すぎるので、それは不可能に近い。

もちろん、熟達していくにしたがって、「良い手が見える」ようになる。つまり、天才と凡人の違いは、この「直感」の飛躍と独創性にある、ということになるだろうか。
 
天才の直感は、凡人の直感とは異なる。凡人がスルーしてしまうところに、天才は引っ掛かりを覚える。「見えているものが違う」のだ。もちろん、天才とて、最初からすべてが「見える」わけではなく、訓練によって「見えるようになった」ものもあるだろう。
 
訓練とは、すべからく「見えるようにする」ということなのかな、と思う。もっともっと将棋を指して、いい手が「見える」ようになりたい。

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