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作家の適正がある人とは?

小説を書くとき、「小説家の適正がある人はどういう人なのか?」みたいなことをよく考える。

もちろん、人には個性があり、「自分はこういうものが書ける」という得意ジャンルがそれぞれ違うと思うので、だからこそいろいろな作品が生まれていくとは思うのだけれど、「そもそも小説家に向いている人・いない人」という区分けがあるような気がしている。

ネットを見ると、「夫に不倫されて離婚を考えている」みたいな人の呟きをよく見かける。不倫されただけならまだしも、ギャンブル狂だったり、そもそもの金銭感覚がおかしい、育児をまったく手伝ってくれないなど、「本当にそんな人いるの?」と不思議になるレベルの人たちに対する愚痴をよく見かける。よくそういう男性を見つけてきて、あまつさえ結婚・出産までしたもんだと感心するのだけれど、とにかく、そういった人は負のエネルギーで溢れている。私生活をネットに書き込んでいるぐらいなので、多くの人々にその実態を知ってほしいと思っているのだろう。

また、もっと世の中全般を呪っている、呪詛みたいなことを書いている人もいる。こういう人もエネルギーは強めだと言っていいだろう。

なんというか、こういう人たちは「世の中に言いたいことがある」ようなので、発信するエネルギーが非常に強い。また、ネットの呟きを見る限り、人々に共感されやすいらしく、一定の支持を受けているようだ。だから、一見すると、こういう人たちは作家に向いているのでは、と考えたりする。

歴代の芥川賞受賞作などを見ると、こういう「負のエネルギー」みたいなものをうまく作品に反映できたものが受賞する傾向にある気がする。まあ必ずしもそればかりではないが、そういう印象がある。

文学作品というのは、「時代」を色濃く反映したものが受賞しやすい。「時代」を反映させるためには、社会にうまく溶け込めない人を描くのが手っ取り早いため、自然とそうなるのだろう。

社会にうまく溶け込み、それなりの会社に勤め、それなりの家庭を築いている人々は、そこまで強いメッセージ性のある作品は作れない気がしている。



最近、漫画「ONE PIECE」作者の尾田栄一郎のインタビュー記事を読んだ。そこで、尾田栄一郎が「これまで、自分は『普通』なものに接して育ってきた」というようなことを言っていた。小さい頃は、流行っている音楽を聴いて、流行っているテレビ番組を見て、流行っている漫画を読んだ、と。それによって「普通の感覚」が身についたので、それが漫画家になったいま、武器になっている、と発言していた。

強いメッセージ性を持った人がいる一方で、「普通の感覚」を保ったまま、創作活動をする人もいるということだ。つまり、実際に活躍している人を見ると、一概にこのタイプが向いている、というのは言えない、ということになる。

ひとつ言えるのは、負のエネルギーを持った人は、そういった作品しか作れない、ということだろうか。どれだけ素晴らしいものを作れても、一発出して、それで枯渇してしまうこともありうる。プロとしてやっていく人々は、自分のメッセージをのせず、淡々と職人のようにやっていく作業も必要だろう。

ミステリ作家の森博嗣は、名古屋大学工学部の助教授だったときにはじめて小説を書いた。作家になりたくて小説を書いたわけではなく、鉄道模型などを作るのが趣味で、そのためのお金を捻出するため、バイトのつもりで書き始めたそうである。

しかし、年に十数冊という驚異的なペースで執筆を続け、そのおかげで本がたくさん売れ、いまでは大金持ちになり、田舎に引っ越して、趣味に明け暮れているらしい。森博嗣は小説を通じて伝えたいメッセージなどなかったと公言しているが、仕事として続いたわけだから、小説家としての適正はあった、ということになる。

最終的には、適正のあるなし、作品の良し悪しは他人が判断することであって、「こういう作品が書ける人」が作家に向いている、と決められはしないだろう。同義語反復トートロジー的な結論になるが、きっと「書き上げ続けられる人」が小説家に向いている人、なのかもしれない。

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