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「書く習慣」で何が変わりますか?

noteを適当に巡回していると、noteを書くことによって文章力がついたよ、と喜んでいる人をよく見かける。つくづく、noteというのは「書くこと」自体に重きを置いている人が多いんだな、と思う。

ちょっと前に「書く習慣」という本が出た。個人的にはあまりピンとこない内容だったのだが、多くの人に支持されているところを見ると、「書くことブーム」が静かに起きているものと推察できる。

インスタやショート動画などがあまりにも跋扈しすぎているので、それに辟易した人が多少は「文章」のほうに流れてきている、というのはあるのかもしれない。

よくあるのが「一ヶ月毎日書いてみた変化」などの記事である。一ヶ月やっただけで変化を実感できるのはいいな、と思う。おそらく最初だから変化を感じやすいのだろう。それはスポーツでもなんでもおなじだ。

自分は一ヶ月文章を書いたからといって特に何も変化を感じない。なんだかんだ10年以上ブログをやっているので、もう成長は相当鈍化しているのだろう。

「書くこと」を趣味にする人の最大の壁は「ネタ切れ」のようだ。だいたい、一ヶ月もすれば書くことがなくなるらしい。スポーツやゲームなどの趣味と違い、「文章を書くこと」というのは、常に書く対象、つまり新鮮なアイデアが求められる。

相手がいて、何かしてくるということはなく、基本的には何もない白い空間に文字を埋めていく作業になるので、ゼロベースで生み出す能力が必要になる。たぶん一ヶ月ぐらいはそれまで自分が経験したことや考えていたことなどを書けばいいので簡単かもしれないが、それ以上になるとなかなか厳しい。そこで書くのをやめてしまう人も多いようだ。

僕もたぶん2015年ぐらいだと思うのだが、ネタ枯渇には苦しんでいた時期がある(その頃はまだnoteではなかったが、毎日ブログを更新していた)。仕事もかなり長時間労働で大変だったので、合間合間に思いついたことをスマホにメモして、ネタのストックをしておいたり。

でも、あとからいざそれを記事にしようと思うと、どれもしょぼく感じて、結局ネタがない、ということになっていた。

いまは逆に、アイデアのストックはしない主義だ。忘れるものは忘れるべきものだったと考えているからである。必要なことだったら、また形を変えて思いつくだろう、と思っている。

これは自分なりの手法だと思っていたのだけれど、ひょっとすると単に「慣れた」だけなのかもな、とも思っている。

どんな習慣でも続けていくうちに続けることが全く苦ではなくなるときがくる。それが軌道に乗ったことを意味するのではないだろうか。

そのうち、ネタが「ない」のではなく、なんでもネタに「なる」ことに気づく。視点が変わるというか、こういうことも言えるんじゃないか? などと広げて考えていくと、無限に文章が書ける。僕の書いている記事は、前々から考えていたこともあるし、ちょっとした思いつきのようなものもある。しかし、いずれにしても、それなりの長さの文章はすぐに書けるのだ。

続けていくうちにだんだん成長は実感しにくくなるけれど、ひそかに成長しているのかもしれない。何年か前の記事を読むと結構ひどかったりするのだが、それは自分の成長の証だろうか。

「書くこと」について、あなたはどう思いますか?

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