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視点の多さと生活感について

僕は基本的に、視点は多ければ多いほどいいと思っている。自分からの目線だけではなくて、いろんな人の目線で世界を見ることが重要だということだ。自分からの視点では見えなかったことが、違う状況に置かれた人の視点からで見えることもある。できるだけいろんな目線で話をすることで、解決できることもあるだろう。
 
普段僕が書いているこのような文章を見ると、すごく客観的で冷たい思考する人間のように思われるかもしれないが、むしろこうやって文章書くときは、自分の視点をなるべく外して物事を考えるようにしている。普段考えている事とは違う視点を持って物事を考えるようにするためだ。

先日、押尾信さんという、小説を書かれている人と話をしていて、この話題が少し出た。僕が描く小説は、群像劇的というか、いろんな人が立ち代わり主人公になるタイプの話が多い。一人称的な話を書くことももちろんあるのだが、作品としては三人称的な話の方が割合的に多い。

押尾さんはどちらかと言うと、一人称的な視点から物語を展開していくことが多い。しかも、奇妙な事はあまり起こらず、リアリズムの手法で淡々と物語が進行していく。
 
僕はいろんな視点からものを考えるのが大事だと考えているので、何の疑いもなく自分が小説を書く時もいろんな視点を取り入れて物語を展開していくようにしていたが、押尾さんの場合は、自分から見える風景を特に大切にしているようだ。

自分が体験したこと、自分が考えている事、自分が感じていることをベースに物語を作っていく。もちろん主人公が自分自身だと言うわけでは無いのだけれど、なるべく自分というフィルターを通してストーリーを組み立てているようだ。
 
いろんな経験をしてみたりして、視点を増やさないんですかと僕が押尾さんに聞いてみたら、「むやみにたくさん増やす必要はない」というようなことを言っていたように思う。自分の身の回りで起きていることを丁寧に物語に落とし込むのが押尾さんのやり方なのだそうだ。

考えてみれば僕の小説と比較するとずっと生活感があるし、そこに生きていると言う実感がある。視点を増やしすぎると、どうしても客観的になりすぎるので、生々しさや生活感といったものは出にくいのかもしれない。

人間というのは少なからず偏った視点で物事を見ているものだから、それを超越したところからではなく、偏ったままで物事をありのままに描いていくということも必要だと思うし、そういったことができるツールが小説なのではないかとも思った。

普通の本で偏った視点で物事を見ていると批判の対象になるが、むしろ文学が果たすべき役割はそこであるような気がしたのだ。考えてみれば、芥川賞を受賞するような作品は、相当にひねくれた、偏った視点で書かれた小説が多いように思う。
 
自分と異なるスタンスで取り組んでいる人と話をするとやっぱり刺激になるな、と。こうした後から分析するところもなんとなく僕の性分を表してるような気もするけれど。

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