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なんで勉強しなければいけないのか? に対する20年越しの答え

子どもが一生に一度は抱く、「なんで勉強しなければならないのか?」という疑問。実際には、より具体的に、「なんで因数分解しなきゃいけないの?」とか、「三角関数って大人になっても使う予定ねーよ」とか、「将来は英語を使わない職業に就くから大丈夫です」など、自分がその時直面している課題をしない方向に一生懸命持っていこうとする(笑)。
 
その時の大人の対応として代表的なのは、「受験で必要になるから」とか、「そのうちわかるからとにかくやれ」とか、「大きくなったら恥をかくよ」などだろう。間違ってはいないのだが、もうちょっとうまい言い方ってないものかなと思う。

僕も実際に子供の頃は何で勉強しなければならないのか納得がいかなかったし、その時にめちゃくちゃ納得のいく答えを返してもらった記憶がないから、これについてはずっと引っかかっていた。
 
盛田隆二の小説、「湾岸ラプソディ」の作中でも、この質問が繰り広げられる。主人公の大学生は中学生に勉強を教えているのだが、中学生が「こんなこと勉強してなんになんだよ」と質問をする。

それに対する主人公の答えは、「役に立つことばかり教えられても面白くないだろ」と。「お辞儀の角度とか、根回しの仕方とか、そんなの教えられて面白いか?」と。まあこれはこれで悪くはないけれど、まだちょっと弱い感じもする。そもそも、発言している当人がまだ学生だし。

僕が最近感じるのは、学校で習うことというのは、生涯を通じて変化が少ない内容だ、ということだ。三角関数というのは生まれた時から三角関数だし、死ぬまで三角関数のままだし、西暦3000年になっても変わらないだろう。

社会人になって教えられること、たとえば名刺の渡し方なんかは、確かに必要だけれどすぐに覚えられるし、簡単に調べられる。それに、社会が違えば名刺の渡し方も違うし、そもそも名刺という文化がないところもある。もうしばらくしたら名刺そのものがなくなるかもしれない。
 
社会に出て必要なことは、それについて教えてくれる人がいるし、必要になれば調べられるから覚える必要はない。

でも、学校で教えられることは、すぐには必要にならないかもしれないけれどいつか必要になったときに、簡単には調べられないし、身につけていないと困るものだ。たとえば、「来月から海外担当になるから、それまでに英語を身につけておいて」と言われても、すぐにできるものではない。

また、学校で習うことは「情報」とは違う「教養」なので、ググってもすぐに出てくるものでもない。外国人と食事をしていて、「日本の歴史を教えてくれ」と言われても、その場でググるわけにはいかない。

子どもの頃はわからなかったけれど、世の中のあらゆる情報は変化する。世界のトップ企業だって、ものすごい勢いで交代が進んでいく。新しい技術はどんどん生まれるし、そういうのは、一瞬で陳腐化していく。
 
それに対して、学校で習う勉強は、(おそらく)死ぬまで通用するものだ。「一瞬で陳腐化してしまう知識」よりも、「一生使える知識」を蓄積していったほうが、長い目で見れば有利だとは思わないだろうか?
 
……ということを、子どもに納得させるのはめちゃくちゃ難しいと思いますが、今度聞かれたときのために準備しておこうと思います。できるかな。

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