ニーズについて考える
最近、マーケットとニーズについてよく考える。
資本主義社会というのはよくできていて、「こういうのがあったら便利なのにな」と思って調べてみると、たいていすでに既存のサービスが存在している。「どんな手を使っても解決しない」というのは、現代においては相当珍しいのではないか、と思えるほどだ。
数年前、僕は中国に住んでいたのだけれど、読みたい本を手に入れるのに苦労したことがある。当時から電子書籍などもかなり普及していたので、基本的にはiPadの電子書籍で読んでいたのだけれど、Kindle配信していないものについてはどうしようもなく、困っていたのだ。
そこで、本をスキャンしてPDFデータに変換してくれる、いわゆる「自炊業者」の存在を知ったので、それを利用してみることにした。つまり、amazonで買った本を直接、その自炊業者に送りつけて、本を裁断・スキャンしてもらう。そして、そのデータを送ってもらうことで、海外に居ながらにして、日本の本を自在に読むことができる、というわけだ。
標準として案内されているやり方ではなかったものの、組み合わせて使うといろいろなことが実現できる、ひとつの例だと思う。
マーケティングの世界では、「ドリルを売るのではなく、穴を売れ」という有名な話がある。顧客が欲しがっているのは穴であって、ドリルではない、というのだ。
まあ、それを言うのは簡単だけれど、じゃあ穴が必要だということをどうやって察知して、どうやってそれを売るのか、と思う。ニーズがあることを掴むのは簡単だけれど、それを実現するためにはまた別途、知恵を絞る必要がある、と思うのである。
現在僕が住んでいる家は、コンビニ店舗の立地からちょうど均等に離れた位置に存在してて、コンビニに行くためにはちょっと歩かなければならないのだけれど、奥さんなどは家の前にコンビニができたらいいのに、ということを話していた。
確かに、奥さん(ならびに、住んでいるマンションの住人)にとって「目の前にコンビニができる」ということに対するニーズは非常にあるが、それを商売として成立させるだけのモデルが作れるか、というと少し難しいだろう。というのも、うちはあまり人通りが激しいとはいえない住宅街の中にあるからだ。
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先日、スーパーでお弁当を買ったとき、お弁当には箸やソースが入っていなかった。おそらく、どこかでそれを置いてあったのかもしれないが、取り忘れたのだろう。自宅で食べたので、箸は問題なかったが、ソースは自宅にはなかったので、かなり困った。
結局、仕方がなく醤油を少しかけて食べてみたのだが、なんかだいぶ変わった味になった(まずかった)。そのとき、別に僕はソースが特別に好きで、ソースがなければ生きていけないということはないけれど、この状況においてはソースが欲しいな、ということを思ってしまった。
つまり、ニーズというのは常にそこにあるものではなくて、瞬間的に必要になる、ということである。
トイレットペーパーが常に欲しい人、というのはそんなにいないと思うけれど、トイレに入った時にトイレットペーパーの需要は最大限まで高まるだろう。
もし、トイレットペーパーがないトイレで、それを販売したら結構いい値段で売れるかもしれない。そのように考えていくとニーズというのは面白いし、工夫の余地があるのかな、と。
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そういえば、こんなこともあった。中国の上海市に住んでいた頃、よく雨が降ると、地下鉄の出口のところで、露天商のような人がシートに折り畳み傘を並べてよく販売していた。
販売には当局の許可が必要らしく、よく警察に見つかって逃げたりしているところを見かけたが、雨になるといつもどこからともなく現れて、せっせとビジネスに勤しんでいた。あれは、ニーズに対する供給として非常に機能していたと思う。
反対に、バングラデシュのダッカに行った時、渋滞にハマっている時に路上生活の少年たちがよく何かものを売りに来ていたのだが、タオルや食べ物ならまだしも、世界地図を売りに来たことがあった。まさか車に乗っていて世界地図のニーズがあるとは思えないので、なんとも不思議な気持ちになったものだ。売れるものであればなんでもいいと思っていたのだろうか。
ニーズとサプライについては、まだ色々と考えることはある。考察を深めていこう。
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