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「活字」を知りませんでした

知っているようで知らないことは意外と多い。そこまでたくさんものを知っているわけではないものの、そんなに基本的なことを知らなかったのか、と驚いたことがあった。

僕は「活字」を知らなかった。「活版印刷」における「活字」である。偶然YouTubeで動画を見ていたら、今でも活版印刷で地域新聞を作っておられる方が出演している動画があった。

見てみるとわかるのだが、なかなか衝撃的な光景である。棚に無数に収まっている「鉛の活字」を探し、木の枠に収めてレイアウトする。そうしてできた版を印刷機にかけ、一枚一枚印刷する。これが「活版印刷」の基本的な仕組みなのだ。

グーテンベルクが発展させた「活版印刷」について、なんとなく意味を知った気になっていたけれど、こんなに手間のかかる工程だということを知らなかった。まず一字一字文字を拾うというのは大変な重労働だし、集めた活字も鉛なのだから、それなりに重量もあるだろう。

拾った活字が正確かどうかのチェックも必要だし、活字が劣化していたりしたら交換しなければならない。現代の印刷技術からみれば、こんなに手間のかかる工程は考えられるだろうか。

この工程について、自分は何も知らなかった。つまり、「活字」について、何も知らなかった、ということになる。

そういえば、「活字を拾う」という言葉も、どこかで聞いたことがある気がする。しかし、実際にこうやって鉛でできた金型を拾い集め、それを元に文章をつくることだということを知らなかった。本当に文字通り、一文字一文字、鉛の活字を棚から回収する作業だったんだな、と。

僕は1987年生まれなので、生まれたときからかろうじてコンピュータがある世代である。たぶん、活版印刷による印刷物というのも、目にしたことはほぼないのではないだろうか(あるかもしれないが)。

日本語のような漢字文化圏は文字が多いため、活字を拾っていく作業は途方もなく時間がかかる。英語ならばアルファベットの26文字でいいぶん、日本語よりは楽であっただろう。しかしそれでも、文字数が多いので、決して楽な作業ではなかったはずだ。

文章というのは文字から成り立っているわけだけれど、その文字も一字一字の組み合わせだと考えるととても面白い。活字が棚に収まっているところから拾われて、いったん文章になったあと、またバラバラになって元の位置に戻る、と。これほどのスクラップ・アンド・ビルドがあるだろうか。仏教的な世界観でもある。

ついでに印刷の歴史なども振り返ってみた。

もともと、古代社会は文字を残す技術としてロゼッタストーンなどの石に刻み込む手法を開発したが、当然ながら複写が難しいし、持ち運びもできない。文字を「保存する」ことはできても、伝達するという観点からは、非常に効率が悪かっただろう。

そのうち、木簡を使ったり、パピルスを発明したりしてだんだんと簡便なものになっていくが、グーテンベルクの「活版印刷」は革命的な出来事だったという。それまでは写本で一日あたり一冊を複写するのがせいぜいだったのが、版さえ作ってしまえば一時間で200ページ生産できる時代に突入したのだ。

しかしそれすらも、現代から見れば「ローテク」に見えてしまうのはおそろしいな、と。

現代というのは、どれだけ文字が飛び交う世界なのだろうか。活版印刷以前と以後では比較にならないほどの「情報革命」が起きたが、インターネット以前と以後でもまた比較にならないほどの革命が起きているだろう。こうして、ネットに掲載された文章は、書かれたそばから世界中の人が瞬時に読むことができる。これはあらためてすごいことだな、と。

しかしそのおかげで、失われていく技術もある。技術は、共存の歴史ではなく、淘汰・駆逐の歴史である。新しい技術がいろんな角度から登場して、どんどん置き換わっていくから、人類の歴史とは、「技術の墓標」が林立する墓場、と言い換えることもできる。


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