宇宙人の視点で見てみたら

「人間の知性」について考えるとき、地球人の視点で考えるのも限界があるので、少し視点を変えてみる。

たとえば、宇宙人の視点から見たらどうだろう。遠い宇宙の果てから、地球という星を発見し、そこを実効支配していると思われる「ニンゲン」という生物がいるらしい。彼らはどのぐらいの知性をもった生物なのだろうか?
 
例えば、アリの生態について調べるとする。アリは単体ではちっぽけな存在だが、巨大なアリ塚やコロニーを形成することができる。そこで、アリを一匹捕まえてきて、ケージに入れて観察をしてみる。

しかし、アリを一匹だけ持ってきても、そのアリ単体ではあまり大したことはできない。せいぜい、ちょっと穴を掘ったりするぐらいが関の山だろう。
 
似たようなことは、人間に対しても言えるのではないか。人間は高度な文明をもっており、橋を架けたり、巨大なビルを建設したりする能力がある。そこで、人間を一匹だけ捕まえてきて、ケージに入れる。木や鉄材など、必要な材料を一通り与えてやる。

しかし、一匹だけでは、ビルどころか、スマホひとつ、ひょっとしたら簡単な家具ですら満足に作れないかもしれない。それどころか、絶望したり、精神的に病んでしまって、長く生きることさえないかもしれない。

そこで宇宙人はこう考える。「この人間に、着ているや家、さらにはスマートフォンみたいな高度な機械を与えたのは一体誰なのだろう? 人間とは、もともとあった高度な生命体が作った文明に潜む、寄生虫のようなものなのではないか?」と。


 
「世界には、一人ひとりに役割があって、それで社会が成立している」というと、なんだか綺麗ごとのようではあるけれど、実際にそうだと思っている。人間一人ひとりには大した能力がなくても、それをどこかに蓄積し、それを学んで、社会が形成されている。

完全に独立して自分だけで成立している個人がいないように、完全に独立している会社もないし、それどころか、完全に独立している国もない。人類全体で共有し、知識を積み上げていくことを「集合知」という言葉で表現できるのかもしれないが、それにしても、人間の集合知の総量は他の生物をはるかに凌駕する。

そして、「集合知の総量と、個人の能力の差」もまた凄まじい。地球上のどの生物も、その足元にすら及ばないだろう。


 
これは同時に、民主主義社会が実は機能的に破綻しているのではないか、ということも同時に示している。個々人の能力が大したことないのに、民主主義の選挙で多数決で代表を選ぶのはおかしいのではないか? ということだ。

人類が積み上げてきた驚異的な科学の力に比べて、政治などの活動がなんだか頼りない感じがするのも、「集合知の強み」が生かせていないからだろう。

考えてみると当たり前の話でも、こうやって考えてみると、あまりの落差に愕然とするのである。

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