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メモ魔否定論者と、「いま書く」こと

世の中には、「メモ魔」と呼ばれる人たちがいる。日頃から、なんでもかんでもメモにとっておく習慣のある人たちのことだ。ちょっと前に「メモの魔力」という本も流行っていた。世間の関心もそれなりにあるものと思われる。

僕は全くメモ魔ではない。仕事でノートはとるけれど、それはモノを考えたり記録をしたりするためにとっているのであり、断片ではなくそれ自体が「情報」である。いわゆるメモ帳的なものに何かアイデアをメモっておく、みたいなことは全くない。

小説を書いているし、毎日こうしてブログ記事も書いているので、当然書くためのネタが必要になる。なので、そういう「メモをとる」行為も有効かなと思い、試していた時期もあった。

いまは完全にnoteに移行したのだが、以前はlivedoorブログというところで、ほぼ全く同じ体裁でブログを書いていたため、たぶん6年ぐらいは毎日更新をしているだろう。継続して書くための方法は試行錯誤したのだが、結局、いまの「メモをとらない」というスタイルに落ち着いた。そして、このスタイルになってからが、おそらく一番長い。

メモをとることにはもちろんメリットはある。まず、一番大きいのが、メモがあると安心感がある、ということだろう。以前はiPhoneのメモ帳にアイデアを書き溜めていたのだが、そこに20個ぐらいのメモが箇条書きで並んでいると、なかなか壮観である。

「今日はどれについて書こうかな」と、ファミレスのメニューを選ぶみたいにテーマを選べばいい。一見すると効率的である。

しかし、メモというのは断片でしかない。そのときに考えたことの断片が走り書きされているだけだ。フルサイズのメモというのはあまりないだろう。

買い物リストのようなものであればそれで事足りるかもしれないが、ブログ記事というのは「思考」を書くことが多いので、断片的なメモだけでは、自分の元の思考を再現できないことが多い。

再現できる場合ももちろんあるのだが、結果として思い出せずに再現できないことも多い。すると、気持ちが乗っていないし、記事としても不完全な、なんとも中途半端な記事が誕生する。

そういう記事は湿った薪のようなもので、たいして燃えないし、煙ばかり出るので、仕上がりとしては最悪である。

また、メモを元に記事を書くことをやっていくと、単純に書くのが「作業」でしかないし、「苦痛」になる。不完全なメモを頼りに文章を書いていくので、全く楽しくない。過去に考えたことを書いていくこと自体が面白くないし、書けたとしても、過去に考えたことなので、いまの自分にとっての新しい発見もない。

なので、失敗する確率が高いうえに、成功しても単なる「作業」なのである。変な話だが、メモにストックがあればあるほど、書くことが苦痛になり、だんだん書く意欲が低下してきたのだ。

メモは書いてもいいのだが、有効なのはせいぜい1日である。それ以上時間が経ったものはどんどん捨てていくべきだろう。僕は幸いなことにほとんどないのだが、いつまでたっても消化されないメモや、仕上がりがいまいちなのに大事にとってある「お蔵入り記事」などはないだろうか。

そういったものは、どれだけ待ってもいいものにはならないので、どんどん消していくのがいい。たぶん、それは自分の中で熟成されていないテーマなのだと思う。そのうち、考えが成熟して、「収穫」のときがくる。

そのときには、また別の切り口で語れるはずなので、「いまの切り口」は捨ててしまっていいのかな、と思う。自分自身の考え方も、時とともにアップデートしていくはずだ。

僕にとっての「書くこと」とは、「自分の考えていることを深堀りしていくイメージ」である。ブレインストーミングのように、自分の中に潜って、何を考えているのか、取り出して、並べていく。それはリアルタイムでないとできないと思う。

記事は「過去のデータを引っ張ってくるもの」ではなく、「いま、生成するもの」だ。「いま」考えていることを大事にし、「いま」考える。それが楽しいし、続くコツなのかな、と思う。

そのためにも、締め切りに追われないことが大事だ。書きたいときに書きたいように書く。それが一番いい。

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