見出し画像

可能性を押し広げる作業

会社を辞めて、転職活動をしているので、 人生について考えることが増えた。最近は運動不足を解消するために毎日一時間半ぐらい散歩をしているので、歩きながらそういうことを考えることが多い。

ネガティブな感情に浸っている、というよりは、今後どういうふうに生きていけばいいのかと、やや戦略的なことを考えている。
 
生まれてきたばかりの瞬間は、いろんな可能性がある。ほぼ無限に広がっていると言ってもいい。小さい頃から方針をもって取り組めば、なんにでもなれる可能性がある。しかし、生きていくにしたがって、最初からあった可能性というのは小さくなっていく。

生きる、ということは、常になにがしかを「選択」し続け、他の何かの可能性を「潰し続ける」ことだからだ。

だから、人生が進んでいくにしたがって、可能性はなくなっていくのか、というと、それも違うのではないか、と思った。

まず、世の中が変化している、という要素がある。生まれた時には考えられなかったような変化が起きていて、それに伴って、生まれたときにはなかった可能性が生まれている。僕が生まれたときには、スマホはおろか、パソコンだってまだ一般的には普及していなかったし、インターネットだってなかった。

いうまでもなく、いまはインターネットによって生まれた仕事が数限りなくあるし、それによって人生が変わった人は数知れない。現時点におけるあらゆる産業の変化は、誰にも予測ができなかったことだ。


 
もうひとつは、自分が獲得したものによって、可能性が変化する、ということだ。若いときは知識や経験がなく、なんにでもなれる可能性があるが、同時に「何者にもなれない可能性」だってある。

若ければ若いほど、可能性の振れ幅が大きい。生きていく過程で自分が獲得した知識や経験を、世の中の変化に合わせて発展させることができれば、きっと自分が生まれた頃からは想像もできないような可能性に変貌するかもしれない。
 
とはいっても、世界は複雑系なので、今後どのように変化するかは予測ができない。だから、いま言ったようなことがプラスに働くか、マイナスに働くかは、運次第、ということになる。

しかし、可能性を広げる努力をしなければ、人生における選択肢が奪われ、さらに可能性は狭まる一方だろう。人生は、時間の経過とともに狭まる可能性に対抗して、何らかの能力を獲得し、みずからの可能性を押し広げていく作業、と言い換えることができるかもしれない。


 
そういうことをごちゃごちゃと考えていても、人生が楽しめないのは確かかもしれないが、たまには立ち止まって、そういうことを考えるのもいい。ただひとついえることは、目の前の課題をクリアできない人は、選択肢を潰す一方で、きっとなんの可能性も掴むことはできないだろう。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。