定まらないならば憂鬱
会社を退職することを決めてから一ヶ月ほどが経過した。いまは「会社を辞める」ことに専念しているので、次をどうするのかを含めて、まだ何も具体的に動き出してはいない。
休息中というか、なにかの「はざま」にいるような時間を感じている。
世間では、コロナの影響で職を失った人々や、売上がなくて行き詰まりを感じている飲食業の人々のことが報道されている。でも、なんだか実感がない。
まだ就職するということに対しては何も動き出していないからかもしれないけれど、なんとかなるだろう、と漠然と思っている。
noteを見ていると、十代ぐらいの若い子たちの投稿を見ることができる。一般に出版している書籍で、十代の著者の書籍は少ないので、逆にnoteではそういう人たちの考えていることがわかるので面白い。
読んでみると、十代の子だって、十代なりの深い悩みを抱えているようで、興味深く感じる。むしろ、悩みの深さからいえば、三十代である自分よりも深いのではないかと感じる。
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自分から見れば、十代というのは若くて、なんにでもなれる可能性があるのだから、何をそんなに悲観する必要があるのか、とシンプルに思ってしまう。
でも、自分だって十代の頃はあったわけで、その頃はやっぱり悩みを抱えていた。十代のほうが何にでもなれる可能性はあるが、何にもなれない可能性もあるのだ、という見方もできると思う。そして、少なくとも自分の年代に到達するためには、10年間の歳月を生き抜かなければならない。
死ぬまでにはもちろん、まだ何十年もある。そういうことを考えると、確かにちょっと憂鬱かもな、と思う。「あとこれだけ生きなければならない」というのは、ある種のプレッシャーをともなう。
「自分の人生はあとこれだけしかない」と思えてからが、「本当の人生のはじまり」なのかもしれない。
ある程度長く生きてくると、可能性が狭まるかわりに、選択肢というのも少しずつ限定されてくる。そうすると、悩む余地がなくなって、「悩み」も減ってくるのかな、と思う。
悩む、というのがそもそも若い証拠なのだ。そういう意味では、退職を決意する前はさんざん悩んだけれど、いったん決めてしまってからは、あまり悩まなくなった。道が一本に定まったからだろう。あとは行動するのみだ、という感じになってきている。
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「コロナの底」というのは見えない。ここが底かもしれないし、来年はもっと悪化しているかもしれない。でも、何かを決めて行動することを決意したら、そんなに怖がる必要もないのかな、ということを思う。
とりあえず本格的に動き出すのは来月以降になると思うけれど、いまはしっかりと充電して、次に備えたいと思います。
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