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かわいいは正義……

友人と話していたら、自分が「かわいいもの好き」であることに気付かされた。

僕は、無意識のうちに、何かを選ぶときに「かわいいかどうか」をけっこうな比重で評価基準にしていたのだった。

たとえば、先日、タイに行った時に友人や実家に買うためのお土産を探していたのだが、とてもかわいい象の木彫りのコースターがあり、迷わずにそれにした。

ありがたいことに、友人一同からはとても好評で、実際に使ってくれているようだ。自分の「かわいい」という感覚があまりズレていなかったようで、ほっとした。

かわいい、という言葉は、女性がよく使うものであり、男性はそんなに使わないとされている。でも、別に女性の専売特許というわけではない。男性だって、かわいい、という言葉を使いまくってもいい。
 
かわいい、というと、ちょっと前にブームになっていた「きゃりーぱみゅぱみゅ」を思い出す。あの「かわいい」と、僕の思う「かわいい」は少し系統が違うので、ちょっとした誤解が生まれるのかもしれない。
 
僕のいう「かわいい」とは、「シンプルさ」と言い換えることができる。ゴテゴテした装飾品をつけまくった「かわいさ」ではなくて、無駄なものを削ぎ落とし、デフォルメされたものが「かわいい」と思う。

北欧のブランドでmozというヘラジカがトレードマークのブランドがあるが、ああいうのが僕の指す「かわいい」の権化である。あれは確実にかわいい。

実家に帰ったらなぜかmozのマグカップがあったので、実家に帰ると必ず使っている。リュックとか傘とかもあるので欲しいと思っているぐらいだ。

考えてみれば、「かっこいいもの」に対しては、昔から関心がないような気がする。バイクとか、ミニ四駆とかにハマる同級生はいたが、そういったものには昔からさほど関心はなかった。

「かっこよさ」と「ダサさ」は、けっこう表裏一体な関係のような気がする。中学生ぐらいにかっこいい、と思っていたものが、大人になって改めて見てみるとなかなかダサい、というのはよくあることだ。

かっこいい、という感覚は、極端に何かを強調していたり、性能のよさをひけらかすようなところがあり、価値基準がそこから逸れてしまうと関心を失い、「ダサい」と感じるようになるのかもしれない。

一方で、僕の定義する「かわいい」ものは、要素としてとてもシンプルなものなので、時代が変わってもさほどのギャップは生じない。

かわいいものはいつまでたってもかわいい。なにせ、要素が少ないのだから、移り変わりも少ない。かわいいは不変。
 
かわいいものは人を惹きつける。シンプルさの中に潜む根源的な美がそうさせるのだろうか。

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