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猫と言語と思考

奥さんの連れてきたアポロン(猫)と暮らしてそろそろ二ヶ月になろうとしている。寝室とリビングを分離しており、寝室を出入り禁止にしているので、若干寂しいらしく、日中は常にそばにいる。

新居にも慣れてきたようで、家中のそこかしこでくつろぎ倒している。トイレや餌箱を兼ねた三階建ての鉄製のケージ(檻)があり、ときどき水を飲んだり用を足したりするためにその中に入っていく。
 
室内で飼っているので、かなり運動不足だと思われる。一応キャットタワーもあるのだが、勢いよく上り下りしている様子は見られない。ときどきネズミのおもちゃで遊んでやったりはしているのだが、それにしてもそんなに長時間やるわけではない。

せめてもの運動に、と餌箱は三階立ての最上階に設置している。一階から順番に上がっていかないと、食べられない仕組みだ。
 
三階の扉も開いているので、ときどき三階から飛び降りている。しかし、一階まで降りてくるときもある。頻度としては半々ぐらいだ。

あるとき、ふと思い立って、一階の扉を閉めてみた(鼻で軽く押せば開く程度の閉め方だが)。一階が閉まっていると、三階から降りなければならないのだが、果たしてそれがわかるのかどうか。

すると、アポロンは、あろうことか、ケージの底を掘ろうとした。当然ながら、プラスチックの床なので掘れるはずもなく、すぐにあきらめた。今度はなぜかトイレに入った。結局、右往左往しながら三階に辿りつき、餌をまた一口噛んでから、三階から降りた。

アポロンの思考はいったいどうなっているのだろうか。客観的にみると、問題に遭遇した(=一階の扉が閉まっている)ので、別の出口を探して、そこから出たように見える。

しかし、三階に到達するまでに、数分の時間を要していた。はたからみていると、アポロンが「思考」した結果そうなったというようには見られず、ただ単にランダムに行動を羅列した結果、「結果として」檻から出ることができた、ように見えた。

途中、トイレに入ったり、水を飲んだり、餌を食べたりといった行動があいだにはさまっていて、一直線にそこから出るようには見えなかったからだ。
 
猫に思考能力はあるか。奥さんは、ないという。猫は言語を持っていないからだ、と。

確かに、アポロンに「明日」という概念は理解できないかもしれない。もしかすると、「未来のこと」はわかるかもしれないが、「明日」と「明後日」の区別は、きっとつかないだろう。

僕だって、言語を獲得しているからなんとなくおぼろげにわかる、というだけで、言語を持っていなければ、「明日」と「明後日」の区別はつかないに違いない。

「時間」というのは、相当に抽象的な概念だといえる。時計という機械や、太陽の動きなどを意識しなければ、それがそこにあるということを認識することすらできない。
 
言語による抽象思考は、間違いなく思考そのものだ。一方で、言語を伴わない思考もあるよな、と思う。たとえば僕は作曲が趣味だが、作曲中は言語を用いない。

言葉じゃなくて、聞いたときの違和感や、イメージだけを頼りに作曲を進めていく。こういうものは、けっこう多いのではないだろうか。将棋の棋士だって、盤面を思い浮かべて、シミュレーションしていく人が多いと聞く。

「言語」を用いることによって、他者に考えを伝えることはあるかもしれないが、思考が必ずしも言語を伴う必要はないはずだ。

おそらくは、「言語を持たないと思考ができない」のではなく、「言語によって、より高度な思考(抽象思考)ができる」、ということではないだろうか。
 
檻から脱出するのは、抽象思考に含まれるだろうか? けっこう具体的な思考のように思えるけれど、「課題(=一階の扉が閉まっている)」の解決策を考えるためには、確かに言語が必要なような気がする。
 
アポロンにいじわるしたお詫びに、今度ちゃおちゅーるでもあげようと思います。

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