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「シンギュラリティ」は来たのか?

最近、一時期ほどは聞かれなくなったが、「シンギュラリティ」という言葉がある。「特異点」を意味するのだが、どの文脈で使うかによって意味が変わってくる。

AIの文脈で使う場合は、「AIが人間の知能を超えた瞬間」と定義される。現時点のAIは専門の分野においては人間を凌駕するが、まだ総合的な知能という点では人間に及ばない(……と思う)。

AIが人間の知能を超えるとはどういうことか。AIは従来は人間がすべてのプログラムを書いて設計していたが、そのうちAIがAI自身を設計するようになる。すると、もはや人間の知能では理解できない速度で発展していくため、人間はいずれ完全に取り残される……、ということになる。

シンギュラリティを提唱したのはレイ・カーツワイルという学者で、「シンギュラリティは近い」という何やら宗教っぽいタイトルの本があり、その中で述べられていた。ずいぶん前に読んだことがあるのだが、あまりにも長いので大部分を忘れてしまった。

(Amazonにエッセンス版があった)

この「シンギュラリティは近い」が執筆された当初はそれほど一般的ではなかったが、いまはAIが自己学習を繰り返して発展するのが一般的になりつつあり、既に人間では理解が追いつかない段階に入っている。が、まだ人間が不要なぐらいAIが幅を利かせているわけではない。いまは過渡期にあるという感じだろうか。

AIに関しては、ここ10年ぐらいでずいぶん認識も変わってきたのではないか、と思う。それこそ黎明期は、AIのエンジニアがどういう手順でAIが思考するかを考え、手で打ち込んでいた。

が、チェスや囲碁や将棋などのAIにおいては、そういうやり方ではそのうち頭打ちになる、ということが早々にわかった。いまでは、ソフト同士で自己対局を繰り返して、自ら学習させる手法が主流になっている。

「自己学習をする」という手法は、現在では常識的なものだ。となると、それは部分的にはシンギュラリティが実現したともいえるのではないだろうか。

人間が介入するのではなく、AI同士で自己学習を進めていくと、内容が高度すぎて人間に内容が理解できない、と次元に突入する。「なんだかわからないけど、すごい結果が出る」という感じになる。人間に理解できないというのは、つまり言語化できない、ということだ。

「こういう状況になるのがいい状態なので、だからこうする」みたいな言語化ができないのだ。厳密には、やろうと思えばできるかもしれないが、条件が複雑に分岐しすぎているので、普通の人が簡単に理解できるような構造で説明できないのだろう。

しかし、人間自身も実際には相当なことが言語化できない。自転車の乗り方を言語化できるだろうか。サッカーのドリブルは? そもそも、歩く、走るといった単純なことも言語化できない。箸を使うみたいなことも当然無理だ。

人間が「練習して習得する」ことの多くは、言語を超えたことを習得するプロセスなのではないか、と思う。

であれば、AIが習得したことを言語化できなかったとしても、実はそれほど不自然ではないということがわかる。そもそも、言語化できるもののほうが少ないのだから。

高度に発達したAIの言っていることは素人には理解できないが、それは人間同士でもそうだ。すべて言語化して習得できるのであれば、どんなスポーツであっても練習は不要だろう。

僕は趣味で将棋を指すが、将棋も「理屈で理解する」部分はありつつも、「何度も繰り返して、感覚を習得する」ほうが比重が大きい。AIに意識はないが、AIの自己学習は「感覚の習得」に近いと思われる。

AIが人間を超えた能力をもつからといって、人間が学習をやめてしまったら終わりだろう、と思う。常に新しいことを試し、新しい感覚を吸収していかないとな、と。

「学ぶ」という行為がそもそも、能力を突き抜けていく性質をもつと思う。学校で教えられることを嫌々学ぶ生徒は、先生の教えている内容のたとえば60%しか理解できない、とする。その生徒は、学校のカリキュラムの60%の理解にとどまる。

しかし、学ぶことが本当に好きで、自分で自主的に物事を調べていくような生徒だと、無限に知識を吸収していく。普通の生徒と比較すると200%、300%と物事を理解していくだろう。それは本人がやめない限り、止まることはない。この違いは本当に大きいと思う。

やっぱり「学習する」ということがいまの時代の鍵なんだろうな、と思う。AIもものすごい速度で物事を学習していくが、人間も学習の速度を緩めてはいけないな、と。

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