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猫の手も借りたい、という状況

「猫の手も借りたい」という言葉がある。

あまりにも手がふさがっていて、どうしようもないので、そのへんの猫の手でもいいから借りたい、という言葉だ。

しかし、実際に猫と同居しはじめて数週間が経ったが、「猫の手でもいいから借りたい」というのがいかに常軌を逸した状況か、というのがわかる。

おおよそ、「猫の手」よりも役に立たないものはこの世にないからだ。
 
引越しのとき、自分たちで車を借りて引越し作業をしたのだけれど、荷物を運ぶときに両手をふさいでしまうことが多く、よく奥さんが荷物の中から飛び出ている棒などを使ってマンションのオートロックを解除していた。これは、まさに「猫の手も借りたい」状況に近い。

しかし、あれを、たとえばうちの飼い猫でやることは、まず不可能だろう。足をもっただけで暴れるし、そもそも捕獲することすら難しい。

ということは、「猫の手」というのは、実用性の観点からいえば「普通の棒以下」ということになる。

最近、基本的に僕は毎日在宅している。奥さんも、このパンデミック禍で、在宅で勤務していることが多い。だから、だいたい毎日、猫とは一緒に生活をしている。

この猫が、生活の役に立つことは、ほぼ全くない。毎日、好きな時間に起き、好きな時間に寝て、好きな時間にごはんを食べ、好きな時間にトイレに行く。

撫でるのも、こっちから呼んでも大抵の場合は来ないのに、撫でてほしいときは向こうからやってくる。つまり、基本的にこっちの意思でなんらかのことをしてもらう、というのは不可能に近く、完全に向こうの自由だ。

そんな環境で、「猫を手を借りる」というのは想像を絶する。そういうものの助けも借りたい、というのはもはや究極の状況といえるだろう。
 
昔、犬を飼っていたことがあった。かなりのビビリ犬だったので、番犬としてもあまり使い物にならなかったのだが、それでもそれなりに愛想はよかったし、本当は番犬として機能しなくても「犬がいる」というだけで、多少なりとも防犯に寄与はしていただろう。

その観点でいっても、猫というのは基本的になんの役にも立たない。犬よりもさらに立たないのだ。全く、なんで人類が猫をペットにしたのか、謎である。猫も猫で、よく人間に飼われているものだ。

だけど、猫がいていいな、と思うのも事実だ。読書したりパソコンしたりしていても、隣であくびをしてよく眠っている。

座っているソファの横の部分を爪でバリバリやるのがお気に入りで、全身を使ってやるので、その仕草が一番可愛い。
 
ただそこにいるだけで役に立つ。生きているだけで素晴らしい。そんな至高の生物のようにも……思えてきた。

働かなくてもいい……のではなく、生きること、ただそれだけが仕事なのだ。

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