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ゲームに没頭する人も、仕事に没頭する人も、目的はお金ではない

大人気ゲームシリーズの「スプラトゥーン3」が発売されたらしい。

先日、リングフィットアドベンチャーをやるためにニンテンドースイッチを購入したので、やろうと思えばできるのだが、買う予定はない。

Twitterを開けば、睡眠時間を削ってまでプレイしている、という人がいたりするので、おそろしいゲームだと思っている。ハマってしまったら最後、無限に時間を吸われつづけると思うので、安易に手を出すつもりはない。

もう「ネトゲ廃人」という言葉は新しいものではなくなった。まるで廃人のように、時間のある限りゲームをプレイし続ける人が世の中にいる、というのは公然の事実だ。以前、ネトゲにハマって生活のすべてがネトゲになっている人の動画を見たことがある。

大学生らしいのだが、ほぼ一日中ゲームをしていて、睡眠、食事以外の時間はほぼなく、さらにいえば食事も最低限のものを短時間で「摂取」しており、はたからみると人間の生活とはとても思えない。

しかし、彼にとってはゲームの中の世界が「本物の世界」で、こちら側の世界が「虚構」のように見えているのだろう。こちらの視点で見れば確かに奇異に見えるが、彼側の視点でみれば、ゲームに没頭するのは至極当たり前の風景なのかもしれない。



興味深いのは、生活のすべてを投げ打ってゲームに打ち込んでいる廃人ゲームプレイヤーは、たとえばブラック企業の社員の生活に似ているということだ。あるいは、動画内でも述べられているが、外資系コンサルの働きぶりに似ているとも言えるだろう。

考えてみると、彼らには共通点が多い。「目的が明確にあること」「仲間がいること」などは仕事と同じだ。さらに、最近のゲームでは特定の時間に特定の目的を達成しないと、それまでの苦労がパァになってしまうような仕組みがあったりして、「責任」という言葉も生まれている。そうなると、ほとんど、ゲームは「仕事」のようなものだと言い換えることができるだろう。

上記の動画内でも触れられているが、ゲーム廃人である彼は、同ゲーム内では上位1%以内のトッププレイヤーなのだという。であれば、苦労して上り詰めたその地位を守るための「義務感」でゲームをプレイしている、という見方はできないだろうか。

仕事というのは一般的に金銭的な報酬を目的に行われるものと思いがちだが、決してそうではない。持てる時間のすべてを仕事に費やしているブラック企業の社員も、外資系コンサルの社員も、お金を使う暇がないぐらいの激務に身を投じているならば、その主たる目的は「金銭」でないことは明らかだろう。

実際、ブラック企業は給料が安ければ安いほど人が馬車馬のように働くのだという研究結果もある。なぜ給料が低いのに激務をこなすのかというと、給料が安ければ安いほど、「これだけの仕事をこれだけの給料でやっているのだから、自分はこの仕事が好きに違いない」と自己暗示にかかってしまうのだという。つまり、「仕事が好きでないと、これぐらいの給料で激務をこなす理由がない」と自分で解釈し、結果として「仕事が好きになっていく」のだそうだ。

はたから聞くとウソみたいな話だが、実際にブラック企業では「ブラック労働自慢」的なものが横行しており、いかに自分が長時間仕事をしているか、といったことを誇る文化が生まれたりする(僕の昔の職場がそうだった)。そういう傾向が見られると、そういった自己暗示もかなり深いレベルに達しているとみて間違いないだろう。



「人生の価値はお金ではない」ことの証左の一つとしては、大金を稼いだ人は、よく車や時計、服に散財をする。自分としては、せっかく大金を手にしたのにしょうもないことに散財してしまうその感覚が信じられないのだが、これも「目的はお金そのものではない」ことのあらわれだろう。

お金だけが欲しいのであれば、シンプルに貯金だけしておけばいいのだが、実際にはそうはならない。現実は、「お金があるという状態」を作り、それを演出することによって承認欲求を満たしたいのだろう。

ネトゲにハマってしまう人。仕事にハマってしまう人。そうやって、没頭してしまうのは、よくも悪くも人間の本能なのだろう、と思う。人が理性でどうこうできるようなものではなく、その本能を活用して人類は発展してきたのだろう。できれば、ネトゲではなく、もっと生産性のあるものに費やしたほうが人類のためになるとは思うが、何をするのも個人の自由である。

自分はゲームをしないが、すればきっとハマってしまうのだろうな、と思う。それは前述の通り、人の本能に根差すものなので、たぶん抗いようがないんだろうな、と思っている。

プラスに働くこともあれば、マイナスに働くこともある、ということだ。

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