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巡り合わせについて

「巡り合わせ」という言葉が好きだ。

いつからかはわからないが、最近よく使っている。辞書を引くと、「自然に巡ってくる運命」という簡単な説明が出てくる。特にそれ以上の説明はない。
 
人と人が出会うのは、巡り合わせだと思う。人生で最初に飛び込むことになる社会として、まず学校があると思うのだけれど、これは巡り合わせの最たるものだろう。

同じ年に、同じ地区で生まれたというだけで、見知らぬ他人同士が同じ学校に通うことになる。同じクラスで友達なんかを作って、親しくなる人も当然いるわけだけれど、お互い、願って同じクラスになったわけではない。「たまたまそこにいた」だけだ。

それでも、うまくすれば一生の付き合いになる人がそこで出てくるかもしれないわけだから、人生は面白い。不確定要素の塊のようだ。
 
似たような言葉に、「一期一会」というものがある。こちらは、よく使われるが、あまり好きではない。

「機会」というのは二度と繰り返すことのない、一度切りのものなのだから、大切にしましょう、というような感じの意味合いで用いられる。なんか、その説教くさい感じが嫌なのである。別に一生に一度の出会い、機会だからといって、それをすべて大事にする必要などはないと思う。

この言葉は茶道に由来するそうだが、原点は仏教であるとされる。しかし、以前、テーラワーダ仏教の本を読んでいたとき、本来、「一期一会」のような概念には、「大切にしなさい」というような意図はない、とする僧がいた。ただ単に、「一度しかない機会である」という事実のみをさすようだ。

これまでにいろんな人に出会い、いろんなことを経験してきたけれど、自分の思い通りにいくことなんてほとんどなかった。小学校のときに思い描いていた人生とは、かなりかけ離れている。

それでも、「思いがけず」手に入ったものの中には、かけがえのない、大切なものがたくさんある。こういうのを「巡り合わせ」というんだろうな、という気がする。
 
いまは納得のいく結果に繋がらなくても、巡り合わせて、いつかはいいことがある、というような意味合いでこの言葉を使っている。どうせ自分の思うようにいかないのなら、流れに身をまかせて、いい巡り合わせがきたときに、それを掴むようにしたいな、と思う。

努力をしない、ということではない。望むものがあった場合、努力はするべきだ。努力をした末に、いい巡り合わせがあるのだと思う。しかし、仮にうまくいかなくても、世の中はそうしたものだから、と素直に受け入れる。そう思わせてくれるだけの力がこの言葉にはあるように思う。
 
どうにもならないことに気を揉んで、思い通りにならないことに気を病むぐらいならば、そのうちいい巡り合わせがあるだろう、と鷹揚に構えるようにしたい。それが自然に思えるようになれば、理想なのかな、と思う。

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