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どれだけバラけた価値観をもてるか

今年はたくさん小説を読もうということで、小説を読んでいる。小説本とそれ以外を交互に読むことで、読んだ本の半分を小説にできる。この工夫はなかなかよい。

いろんな本を読んでいるのだが、いまは森博嗣の「オメガ城の惨劇」という小説を読んでいる。森博嗣の比較的新しい作品である。

いわゆるミステリ仕立てなのだが、登場人物にサイカワ先生というのが出てくる。これは、森博嗣のデビュー作である「すべてがFになる」のメインキャラとして出てきた犀川創平という人物のことと思われる。

森博嗣はもともと名古屋大学工学部の先生だったのだが、あるときミステリ小説を書いてデビューした。その動機は純粋に「金儲け」、バイトのつもりでやりはじめたらしい。

二週間ほどで長編小説を書き上げたのち、出版社にそれを送り付けたところ、出版される運びとなった。それがきっかけで「メフィスト賞」というものが生まれたというのはその筋では有名な話である。

森先生は非常に速筆・多作で知られ、長編小説を二週間で書いてしまうため、その後も大学に勤務されながらバンバン本を出版した。著作は、ゆうに数百冊におよぶらしい。

いろんなシリーズがあり、いろんな登場人物がいるのだけれど、デビュー作に出てくる「犀川先生」は、名古屋大学(がモデル)の工学部の先生という設定で、キャラや信条も森先生と共通点が多いため、森先生自身がモデルだと思われる。読者からのメッセージでもそのように指摘されることがあり、一般的にもおそらくそのように認識されていることだろう。

しかし、ある程度森作品を読み込んでいくと、やっぱり犀川先生と森先生は違うな、ということを感じさせる。ややマニアックだが、大学での専門が違う。犀川先生は建築学、特に都市建築史が専門だが、森先生は素材、コンクリートの解析が専門だ。どちらも建築関係という点では共通しているが、あえて専門をずらしたのはなぜなのだろう(逆に、なぜ一致させる必要があるのか、ともいえるが)。

森先生の執筆の動機は金儲けということなのだけれど、いまは作家業をほぼ引退して(それでも、年数冊は本が出ているが)世界のどこかの広大な敷地のなかで悠々自適の生活を送っているらしい。もともと鉄道模型が趣味で、人が乗れるサイズのものを自作し、庭で走らせて遊んでいる。金儲けというのは、その生活をする資金を作るため、という意味合いが大きいようだ。

犀川先生にはそういった鉄道で遊ぶなどといった趣味は皆無なので、ここが森先生と犀川先生の最大の違いだな、とも思う。犀川先生には趣味らしきものはない。しかし、初期作品には犀川先生の同僚で「喜多先生」という人物がおり、この人は鉄道に関心がある人物のようなので、もしかしたら森先生は自身を犀川先生と喜多先生という二人の人物に分裂させたのかもしれない。

ミステリは主人公を探偵役にするより、主人公を別な人物にし、探偵役を観察している、という形にしたほうがわかりやすい。つまり、シャーロックホームズにおけるワトスンのような立ち位置の人間が必要なのだ。

森作品も、ホームズ形式を踏襲しており、探偵役である犀川先生を観察する視点人物としての主人公がだいたい存在する。こういう人物はもちろんバカでは成り立たないが、ある程度一般人に寄り添う必要があるので、要するに一般人の目線人物ということだ。

面白いのはこういった人物が描けるということは、森先生もある程度一般的な人の考え方とか、価値観というものをわかってるんだな、ということだ。つまりホームズ本人だったら、ワトスン視点で物語をつくるのは難しいのでは、ということだ。そういう意味でも、作者はホームズ的でなければならないが、ホームズそのものでは作れない。

小説家はあらゆる人間を登場させなければならないので、やはり普通の人の感覚を身に着けている必要があるのかもな、と思う。とはいえ、小説の中では普通ではないことが起き、普通ではない人間がその中で立ち回るので、普通でない人のこともわかっていないといけない。

自分は普通だけど普通じゃない人のことがわかる、というパターンもあるだろうし、逆に自分は普通じゃないけど普通な人の考え方もわかる、というパターンもあることだろう。どれだけ登場人物の価値観をバラけさせられるか、というのも作者の技量なのかもしれない。

どのぐらいのレベルで小説を書いているか、ということもあるかもしれないが、小説を書く作業というのは、森羅万象をメタ的に捉えることにほかならない。物語の外側から、物語を見つめている存在だからだ。

たとえ私小説であってもそうだろう。そういう視点の変化を楽しむというのが、小説の楽しみ方の醍醐味かもしれないな、と思った。

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