「仕事の本質」っていったいなんだろうか?

編集者の箕輪厚介が、インタビューで「遊んでいたら、いつのまにかそれが仕事になっている」みたいなことを言っていた。例として、あるときサウナにハマり、サウナばかり巡っていたら、いつのまにかサウナ雑誌をつくるようになり、サウナで使った費用を回収できた、と紹介していた。

その部分だけ聞くと、ただの勤め人の自分からすると、なんともうらやましい話である。

「仕事の本質」っていったいなんだろうか? もちろん、時代的に、たとえば工場でライン作業をしていることが仕事、という時代でないのは明らかだ。あるいは、訪問販売で英会話教材を売ったりとか。

編集者というのは、現代的な「仕事観」でいうと、異端の仕事ぶりが許される「特殊な仕事」に分類されるのだろうか。

僕は編集者ではないが、編集者になりたいと思い、編集者の仕事について調べてみたことがある。そのとき見つけた編集者によれば、「編集者の仕事は、世の中の流れを見て、売れる本をつくること」と断言していた。

そして、その編集者は「自分が読みたい本」をつくるのではなく、「売れる本」をつくっているのだという。なぜなら、自分の感覚は世間的な感覚からはズレているため、自分の読みたい本を作ってみたところで売れないからだということらしい。

そもそも、売れそうにない本は企画が通らない。その部分だけを切り取ってみると、編集者も一般的なサラリーマンと同じなのでは、とも思える。
 
一方で、一般的な会社員であっても、「それって仕事なの?」とはたからみれば思えるようなことってけっこうあるのでは、と思う。それが仕事なのか仕事ではないかの分水領は、「アウトプット=成果物につながっているか」ということだと思う。

インプットとアウトプットの質を上げるのには、コツがある。それは、延々とアウトプットをし続けることだ。たとえば、このnoteみたいに、「とにかく毎日ブログを書く」と決める。すると、毎日、普通に生活しながら、「ブログを書くこと」を水面化で意識しながら生活するようになる。

すると、日々の些細なことでもブログのネタに「自然となっていく」。ネタを仕入れよう、などと思うことなく、普通に日常生活を送り、考えたことが、そのまま文章になっていく。

要は、アウトプットすることが日常化しているので、インプットに敏感になっているのだろう。香港映画で、敵に襲撃されたときに、手近にある椅子やらなにやらを使って戦うようなものである。

音楽でも同じようなことが言えて、普段はなにげなく聞いている音楽が、作曲モードのときに聞くと、構成などを意識しながら、分析的に聞くようになる。

昔よりは、仕事しているかどうかがわかりづらくなっている時代なのかもしれない。しかし、遊んでいるように見えることでも、人によって「何を受け取るのか」は異なる。それは、その人のアウトプットの頻度と質が影響しているように思う。

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