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物語の「面白さ」と伏線回収について

96年から続いている漫画「ワンピース」の最終章がついにはじまり、毎週楽しみに読んでいる。

昔、大学生ぐらいの頃までは毎週ジャンプを買っていたのだが、十数年ぶりにふたたび購入しはじめた(電子版だが)。もう30年近く連載している漫画になるわけで、「まだやってるのか」と思う人もいるかもしれない。

しばらくジャンプから離れていたため、ワンピース以外知っている漫画がひとつもジャンプにない、というのには驚くばかりだ(長期休載しているHUNTER×HUNTERを除く)。

物語が最終章に入っただけあって、ネットでの盛り上がりをウォッチしているとそれなりに楽しい。最終章に入り、どんどん伏線が回収されていっているので、今後もどんどん盛り上がっていくのだろう。

こういう、ある種の「お祭り騒ぎ」を楽しむためには、やはり完結してから読むのではなく、リアルタイムで作品が発表されるたびに触れるのが一番いいのかな、と思っている。

漫画というのは雑誌連載が基本であり、リアルタイムで公開されていくものなので、その波に乗るのが一番楽しめるのだろう。

「物語の面白さ」って一体なんだろう、ということをよく考える。たとえば、壮大な伏線が回収されることが「物語の面白さ」のひとつの要素として挙げられることがある。

たとえば、ずっと味方だと思っていたやつが実は敵だった(あるいはその逆だった)とき、当然その事実が明らかになって読者はびっくりするわけだが、演出を間違えると「なんだそれ」となって、読者は興醒めしてしまう。

なんとなく、伏線でそういったことを匂わせていき、それで予感が的中して「やっぱり!」というのが一番興奮するパターンなのではないだろうか。「なんとなく、そう思っていた」というのが重要なのであり、突拍子もなさすぎると興醒めとなる。作者は技量によって常にその塩梅が試されている。

しかし、伏線回収という技術は「もともとネタを明かすつもりで設定していて、それが明らかになる」というだけなので、仕込んでいたものを公開するだけである。要するに、「先がどうなるかわからない」という複雑な作劇とは違い、ある設定を最初からミスリードしておいて、あとになってからそれを公開すればいいだけなので、それほど大変ではない。伏せられていたカードを表にするだけの作業ならば、誰にでもできる。

とはいえ、どういう演出でそれを明かしていくのか、という部分は作者の技量に委ねられているところではあるので、伏線回収ひとつとっても「上手い漫画」と「下手な漫画」に分かれる。

漫画「進撃の巨人」を読んだとき、作者は間違いなく天才だと思った。

作者の諫山創は、そのあたりの演出のセンスが天才的で、度肝を抜かれたのだ。

進撃の巨人では、読み進めるごとに世界の謎が明かされていくのだが、「伏せられていた設定が明かされること」に重きがおかれているのではなく、その事実を踏まえて「これからどうなるのか全く予想がつかない」というところに重きが置かれているため、徹底してサスペンスなのである。

「進撃の巨人」で、ライナーという人物が、今まで味方だと思っていたのに、その正体は実は人類の敵でした、というのが明らかにされるシーンがある。

通常であれば、主人公側がこの謎を苦労して突き止めるか、盛大な前フリ・演出があって明かされる「大きな謎」のひとつなのだが、普通に別のキャラが話してるタイミングで、雑談みたいな形でコマの隅っこのほうで明かされる。

しかもそのタイミングがあまりにも唐突で、漫画の演出としても、自然にサラッと他の会話の背景でやってる感じのものだったので、最初読んだときは何が起きているのかわからなかった。

なんというか、物語の展開に読者が一瞬置いていかれるような、「あれ? 見間違いかな?」と思うレベルなのである。

諫山創「進撃の巨人(10)」


諫山創「進撃の巨人(10)」

漫画の中のキャラと同じく、「は!?」という気持ちである。

アニメのこのシーンを、外国の映画監督がリアクションしている動画が面白い。僕と同じように、字幕を読み間違えたのではないか、と焦っている。それだけ、セオリーを完全に無視した演出なんだな、と。

伏線が回収されることが面白いんじゃなくて、それによって「この先どうなるのかわからない」、という作品全体の味付けがなされることが重要なのだろう。

物語の面白さとは、「伏線を回収する」といった単純な仕込みだけではない、ということだ。なので、それまで温めていた伏線をサラッと回収して、そこからさらに大きな謎・サスペンスに突入していく。そういうのも面白さなのである。


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