見出し画像

「すべてわかる」ものは、きっと面白くない

普段全くテレビを見ない生活を送っているが、たまに見ることもある。外食をするときに店にテレビがあったりすると、つい見てしまったりする。

別にそんなに見るつもりもないのだけれど、音が出て光っていると、ついそっちを見てしまうようだ。最近は、そもそもテレビのある飲食店もちょっと減ってきた気はするけれど。
 
先日、近所のトンカツ屋でコロッケ定食を食べていたとき、テレビの音で懐かしい声が聞こえてくるなと思ったら、ダウンタウンの浜田の声だった。何かクイズ番組の司会か何かをやっているようだ。

彼の声は特徴的でよく通る。テレビに背を向けて座っていたので、その番組自体を見ることはなかったが、ダウンタウンもけっこういい歳のはずだけれど、まだ普通にテレビに出てるんだな、とぼんやり考えた。
 
ちょっと前に、偶然YouTubeで「タモリ倶楽部」の動画を見た。ちょっと昔の番組で、音楽のミキシングエンジニアに関する特集だった。

ミキシングエンジニアにフォーカスするというだけで、企画としては極めて地味だが、それが成立するのがタモリ倶楽部なのだろう。
 
見ていて面白かったのが、タモリが関心に任せて、ちょっと込み入った質問をエンジニアにした。すると、エンジニアの人はちょっと困った顔で「ちょっと専門的な話になっちゃうんですけど……」と前置きをしてから、本当にちょっと専門的な説明をした。

僕はたまたま作曲が趣味で、自分でも簡易的なミキシングを行うので、用語なども多少はわかるので理解できたのだが、もしそういった知識がなければ、わからないような説明だったかもしれない。

それを見たとき、タモリ倶楽部のこの内容は、テレビとしては「ギリギリアウトか、セーフの瀬戸際だろうな」と思った。内容があまりにも専門的だと、視聴者がついてこれない。

僕はたまたまそれなりに知っている分野だったからわかったけど、「共感」が呼べないと、テレビとしては失敗なのだ。広く、大衆に「わかってもらえて」「楽しんでもらえる」メディアでなければならないからだ。
 
先日のトンカツ屋でダウンタウンがやっていた番組がどういうものかはわからないけれど、漏れ聞こえてくる音声からするときっと、「内容が理解できない」類のものではなかっただろう。

笑い声がたくさん入っていたから、きっとみんな理解できて、共感も呼べる内容のものだったに違いない。
 
内容のわかりやすさは確かに重要だ。しかし、「わからなさ」が全くないものが、「面白い」だろうか? 

「全くわからないもの」は面白くないが、「すべてわかる」ものは、きっとそれと同じぐらいつまらないのではないだろうか? それを見ても、得られる情報は何もないのだから。

見てわかることだけで構成されているならば、見る価値もないだろう、と思う。

テレビと比較すると、本は「わからない」ことであふれている。わからないものがわかるようになったとき、「面白いな」と感じるのではないだろうか。

あるいは、いまはわからないけれど、いつかはわかるようになる、というものも、面白い。
 
テレビが面白いのは、画面がチカチカして、大衆の笑い声が聞こえてくるからだろう。それ以外に、面白いことなんて、ほとんどない。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。