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仕事の量を減らしても、つまらない人生は自分を殺す

先日、noteの企画で、久しぶりにインタビューをした。僕は趣味で、友人にインタビューしてはそれを文字起こしするということをやっているのだけれど、久々にやってみて、やっぱりいいもんだなと思った。

noteの記事を読んだり、チャットで会話するのももちろんいいのだけれど、やっぱり喋ることで得られるライブ感というものもあるからだ。
 
その中で、「人生の手綱を握る」ということについて話した。その人は、これから新規で就農することを目指しており、農家の出身でもなく、コネや資金もない中でゼロから農家への道を切り開いている人だった。

その過程をnoteで拝見していて、とても興味深かったので、詳しく話を聞かせてもらうことにしたのだ。
 
その人は田舎で就農することを検討しているのだが、田舎で暮らす、というのは想像以上に過酷なことである。もちろん、田舎特有の人間関係その他もそうなのだけれど、それ以前に、「生活は自分で切り開いていかなければならない」部分が大きい。

なんだかんだ、都会で暮らしていると、さまざまな都会のサービスに依存して生活していくことになる。極端な話、ビジネスホテルのような何もないところに寝泊まりしていたとしても、コンビニだってあるわけだし、なんでも手に入る都会では困ることはない。

一方で、田舎では何かが起きれば自分や周囲の人間で解決するしかないから、何かが起きれば命に関わる。そういうところが過酷だな、と思う。
 
しかし、その人は田舎にきたことによって、逆に元気になったのだ、という。人が多く集まる場所では、なかなかうまく生きられなかった。しかし、逆説的な話だけれど、より過酷な環境であるはずの田舎に来たことによって、元気を取り戻したのだそうだ。

その話を聞いたときに、ふと思いついたフレーズが、「人生の手綱を握る」ということだった。
 
現政権が推し進めている「働き方改革」では、仕事の時間を抑制して、プライベートの時間を多く確保しよう、というのが大まかな流れになっている。それに対していろんな意見はあるだろうが、基本的にプライベートの時間を多く確保し、心身に負荷をかけすぎないことが充実した人生のために必要なのでは、と言われている。

でも、このケースを見ている限り、どうもそういう感じはしないのだ。


 
僕は、仕事が原因で鬱になってしまったりする人は、「仕事が大変である」ことが最大の要因ではなく、「仕事がつまらない」ことが最大の原因だと思っている。つまらない仕事を長時間、かつ大量にこなす必要があるとき、人は多大なるストレスを感じ、それに押し潰される。

極端な話、「楽しい仕事」をしていたら、もちろん限度はあるが、たとえそれが肉体的・精神的に多少ハードなものであったとしてもストレスは溜まらず、こなせるような気がするのだ。
 
「働き方改革」によってもたらされるものは、労働時間を抑制することによって、余暇の時間を増やし、それによってストレスを発散してくださいね、という方針に見える。しかし、これは対症療法にすぎず、本質はそこではない気がする。

そもそも、労働時間をどれだけ短くしても、解決されない領域だってあるように思うのだ。「仕事を面白くする」、これが一番だと思うのだ。もちろん、そんなことに行政が関与できるわけがないので批判するわけではもちろんないのだけれど、実情としてそういうことを思うのである。
 
その「面白さ」のキーワードが、「手綱を握る」ということなのではないだろうか。わがままな顧客の言いなりになり、理不尽な上司にへいこらして、言うことを聞かない部下に手を焼く。

こういう仕事をずっとしていると、「手綱を握っている」とは到底言いがたい状態が続くことになる。しかし、面白い仕事をして、周りをそれに巻き込んでいくんだ、ぐらいの感じでやっていれば、病気になんてならない気がする。


 
脱サラして喫茶店をやりたい、というのも要するにそういうことだろう。誰のためにやっているのかわからない仕事なんかやめて、自分の人生の手綱を握り直す、ということだ。手遅れになってしまう前に、そうやって自分の人生の軌道を修正できる人がもっと増えたらな、ということを思う。
 
仕事の量を減らしても、つまらない人生は自分を殺す。生きる以上は、面白い人生を歩みたいものだ、と思う。

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