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出来合いの惣菜を皿に移すと味が変わるのか?

自分の親世代(70代・団塊世代)は、買ってきた出来合いの惣菜などを、パックから直接食べるのではなく、お皿に移してから食べる人が多いように思う。ビールなども、缶から直接飲むのではなく、コップに注いでから飲む。

自分の世代は、(もちろん人にもよるだろうが)あまりそんなことはしない。若いうち、特に独身のうちは、特にこだわりのない人であればわざわざそんな面倒なことはしないだろう。洗い物も増えるし。

自分の親世代は「出来合いの惣菜を買う」ことに対して、なんとなく罪悪感を覚えているからでは、と思っている。自分の世代でもそういう人はいるのかもしれないが、弁当箱に入っているものをわざわざ皿に移すような人は少ないような気がする。

と思っていたのだが、試しに平日、在宅勤務しているときに買ってきた惣菜や冷凍食品などを皿に盛り付けてみたところ、なかなか悪くないことがわかった。雰囲気が変わることによって、なんとなく、味もちょっと変わるような気がするのである。

食べている食品自体は同じものなのに、皿に移しただけで、なんとなく温かみが感じられる。水などの飲料も、ペットボトルから飲むのと、ガラスのコップに入れるのと、マグカップに入れるのと、金属製のタンブラーに入れるのとでそれぞれ味が違うような気がするが、脳はそういった「勘違い」を積極的にする、ということなのかもしれない。

これについては、調べてみると、実際にそういう実験結果が得られているらしい。もちろん、成分が変わるということではなく、特定の味が強調されて感じる、ということのようである。

洗い物が増えたとしても、それで少しでも味がよくなったりするのであれば、やるに越したことはない、と思うのである。

僕は料理をほぼしないのだが、コメを炊くことと、パスタを茹でることぐらいはする。料理レベルは、100を上限とすると1ぐらいである(ゼロではないのでは、とは密かに思っている)。

コメは弁当に入っているものよりも自分で炊いたほうがおいしいし、コスパもいい。日本のコメは冷えていてもおいしくなるように品種改良されているが(外国のコメは冷えているとまずくて食べられたものではない。だから、中国などにいくと、オフィスは電子レンジが完備されており、順番待ちがよく起きている)、それでも炊き立てのほうがおいしいに決まっている。

さすがにコメを炊いて、惣菜を皿に移しているだけでは料理とはいえないだろうが、何もせずにただ弁当を買ってくるよりは一手間かけているように思う。

世の中はどんどん便利になっているので、相対的に料理の重要性も減ったのでは、と思っている。学生のとき、ボランティアでマレーシアに1ヶ月ほど滞在したことがあるのだが、わりあい田舎のほうで、飲食店なども限られていたため、一緒にボランティアに来ていたアジアの国々の学生たちと分担して自炊をしていた。料理スキルが低くてあまり役には立たなかったのだが、いろんな国の家庭料理を知ることができて面白かった思い出がある。

確かに、そういう限られた環境であれば、料理は必須だろう。しかし、東京で暮らすうえでは、特に必要性に迫られないので、何もしないのである。

昔、YouTubeを参考に料理に挑戦したことがあった。料理にも難易度があり、火加減や分量を多少間違えてもそれなりに形になるものもあれば、火加減ひとつで台無しになるものもある。一度、オムレツを作ったのだが、うまくいかずに諦めた(要は、その程度のレベルである)。

料理の本質はなんだろう、と考えると、失敗するリスクと、カスタム性能のリターンの比率かな、と思う。

カップラーメンにお湯を注ぐだけだと、失敗するリスクはほぼゼロだが、メーカーが意図したカップラーメンの味にしかならない。一方で、凝った料理をすると、失敗するリスクは高まるが、より美味しくするためにカスタマイズできることになる。また、コストを抑えるために安い食材を使って、一食あたりの値段を下げられる、というのもカスタム性と言えるだろう。

いまでは、特にカスタムしなくても安くて美味しい食べ物が簡単に手に入るので、特に食にこだわりのない自分としてはカスタムする必然性が薄い。なので、料理は自分にとっては、ちょっと趣味的な領域かな、と思えるのである。

家族の人数が増えたり、気軽に食べ物が買えない地域に住んだりしたら、せざるをえないのだろう。いまのところは必要性があまりないので、料理レベルは1のままである。

出来合いの料理を皿に移しただけで料理なんて言っていたら殴られそうではあるが、レベル1なのでこんなものである。

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