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「シンプルなものは美しい」という誤解

昔から、「シンプルなものは美しい」とよく言われる。有名なのが例えばAppleの製品で、iPhoneなどは無駄がない設計だとよく言われる(最近のiPhoneは、どちらかというとゴテゴテしたデザインのものが増えているが……)。

しかし、Appleに限らず、工業製品は「シンプルであればあるほど美しい」という信念の権化のようなもので、至るところでその哲学を垣間見れる。

しかし、個人的には、「美しさ」と「シンプルさ」は全く別の概念なのではないかと思う。少しそれについて考えてみたい。

たまに街中で写真を撮ることがある。そんなにうまい写真は撮れないのだが、写真を撮ると、あることに気づく。「自然の中」よりも、「都市」のほうが格段に撮りやすいのだ。

新宿やお台場などの人工物に囲まれた場所に行くと、だいたいどこを撮ってもそれなりに絵になる。しかし、たとえば山の中に行って、いい写真を撮ろうとすると、なかなか難しい。不用意に写真を撮っても、ただ木と葉があるだけの、ぼんやりとした写真になってしまう。海岸などでも、うまい写真を撮るのはかなりの技術が要る。

写真展に展示されている写真は山や海などの自然物が多い印象があるが、そもそも自然物は撮るのが難しいので、素人には難しいジャンルだと言える。なので、構図やその他を決めるカメラマンのウデマエがものをいうわけだ。さらにいうと、「工業製品」はさらに撮りやすい。それこそ、iPhoneやMacBookはどんな空間に置いてもそれなりに絵になる。

インスタグラムに投稿されている写真はほとんどが「人物」「食べ物」などだが、「人物」はメイクやファッションなどの人工物で装飾されているし、「食べ物」は最終的な見栄えを人間がコントロールすることができるので、工業製品のようなものだ。

つまり、この世にある写真は、ほとんどが「人が、人に見られるために作ったものを、コピー機で印刷するようにコピーしているにすぎない」のだ。

一方、自然はとんでもなく複雑なものである。猫の額ほどの小さな庭でも、いろんな植物が生えていて、昆虫などの色々な生物がおり、何十兆というレベルの細菌が生息している。そして、それらは非常に複雑なバランスで成立している。「シンプルさ」からは程遠い、複雑系の世界なのだ。

オフィスビルの中は綺麗に清掃されていて、虫一匹いないが、それは先ほどの写真の例と同様、「コントロールされたシンプルさ」ということになる。

「シンプルなものは美しい」と感じるのはなぜだろう。「シンプルさ」の代表として、たとえば「数式」がある。物理法則はたとえば相対性理論の「E=mc2」があるが、とてつもなくシンプルだ。このシンプルさから、「この世の真理は常にシンプルであり、それが美しさなのだ」という誤解が生まれたのではないか、と思う。

ひとつ勘違いしてはならないのは、数式は人間が生み出したものにすぎない。確かに相対性理論の数式は「E=mc2」なのだが、この短い数式だけですべてが表現されているわけではない。現実世界では、あらゆる要素がここに絡んでくるので、実験室や思考実験で導き出した数式だけですべては予測できない。

なので、スパコンなどを使って演算することで予測するしかないわけだが、それだって完全に予測できるわけではない。「E=mc2」という短い式で表現しているのは、ある事象のエッセンスではあるものの、複雑に絡まり合う森羅万象の、ほんの一部の一部にすぎないということだ。

シンプルなものでないと理解できないのは、人間が馬鹿だからではないだろうか、と思う。現実は複雑すぎるので、人間はそれを単純化した「モデル」を好む。そうでないと、理解ができないからだ。

しかし、単純化したモデルで森羅万象を理解したつもりになっているのは、思い違いではないかと思うのである。

世界は全くシンプルではない。しかし、複雑な世界にも美しさはある。美しさとシンプルさは両立しないと思うのである。


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