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名作ゲームは資本主義と融和するか?

shu3という実況プレイヤーの「聖剣伝説 レジェンドオブマナ」というゲームの実況プレイ動画を見ていた。

いわゆるやりこみプレイと言われるもので、主人公のレベルが1、敵キャラのレベルが雑魚敵含めてすべてMAXの99と言うふざけたモードで、武器や特技なんかも縛ってやりこみをするというクレイジーな趣旨の動画なのだが、トークと世界観解説などの内容が面白いのでつい2周も見てしまった。
 
レジェンドオブマナは初代のプレステのゲームで、発売は21年も前だ。もはやレトロゲーと言っても良いのではないかと思えるほど古いタイトルだが、しかし古き良きの時代のスクウェアという感じの作品で、やりこみ要素がとても多い。実際、動画を見ていても、「こんな要素は知らなかった」というコメントがたくさん付いていた。

少しだけ、小難しいことを。こういうテレビゲームの「隠し要素」や「やりこみ要素」というのは、資本主義的にはどう考えればいいんだろうな、ということ考えた。

もちろんユーザとしては、隠し要素やりこみ要素があったほうが楽しめる。レジェンドオブマナは名作と言われており、時代を超えて根強いファンがたくさんいるわけだが、それはメインのストーリーや音楽、ゲームシステム、グラフィックが素晴らしいのはもちろんのこと、こういった隠し要素ややりこみ要素がたくさんあった、というのも大きな理由なのではないかと感じる。
 
しかし、いくらそれが楽しくても、隠し要素であればあるほど、それに気づいてくれる人が少なくなるわけで、そういうものを一生懸命盛り込んでも、実際やってくれる人はそこまでいないのではないか、という問題も生じる。

今ならインターネットでいくらでも情報共有ができるが、当時はインターネットもそんなに普及していなかったので、攻略本を買わずにプレイしていた人は、知らない要素をたくさん抱えたまま、クリアしてしまうことになる。製作者側としては、さぞ歯がゆいことだろう。「そこにそれだけの仕掛けを仕込んでいるのに!」と。
 
また、ゲームやってる人というのは基本的にもうすでにゲームを買っているわけだから、それ以上、プレイヤーがゲーム会社にお金が落とすことはない。したがって、隠し要素ややりこみ要素が売り上げに直接貢献するというわけでもなさそうだ。
 
もちろんそういった要素のやりこみが口コミとして伝達されて、最終的に売り上げにつながるということはあるだろうが、それにしても限度があるだろう。今のソシャゲみたいに、やればやるほど課金システムで回収できるようなシステムだったら話は別だけれど、オフラインのゲームでのやりこみ要素なんてただのコスト要因でしかない。

だから、僕は、そういった「隠し要素」「やり込み要素」というのは、作り手側の情熱というか、「こういうことがやりたかったんだ」という思いみたいなものが伝わってきて、とても好きだ。

それが直接、ゲームとしてのリターンにならなくても、作りたいから要素として盛り込む。そういったものを積み重ねて、名作と呼ばれるゲームが誕生するのだろう。クリエイターというのは、資本主義と反するところにいるものなのだ。

「名作」として讃えられるのはたしかに名誉なことかもしれないが、具体的な指標があるわけでもないし、「名作かどうか」というのは、各プレイヤーの主観的な判断による。それでも、「名作でありたい」ために、情熱を注ぐのは素晴らしいな、と。
 
よく、「書籍と資本主義はなじまない」という。だが、きっとゲームと資本主義も同様に、なじまないだろうと思う。資本主義と融和した形態が、ソシャゲなんだろうな、きっと。

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