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どうやって「政治家を選べばいい」のか?

近く市議選がある。最近、近所を選挙カーが走り回っているし、通勤時は駅前で演説をさかんに行っている。一時的なものだし、仕方がないとはいえ、なんだかな、と思うのである。とにかく人数が多いし、うるさい。

一応、選挙と名の付くものがあれば足を運んでいるので、この2年ほどで4~5回は選挙に行っていると思うのだが、政治家自身による選挙運動そのものには、どうも慣れない。



毎度のことではあるが、誰々にどうしても当選してほしい、という気持ちで投票することは皆無である。なので、必然的に消去法で候補者を選ぶことになるわけだが、それでもなお選定には苦労する。普通に消去法でやっていくと、ほぼ全員が消えていくことになるからだ。

特に、自分の住んでいる武蔵野市議選は特にヤバイとネットでもネタになっていたほどである。

かろうじて残るのは「無難な人」ということになりがちである。「ぽい人」というか。もちろん、「ぽい人」が「適任」かどうかは全く別の問題である。

今回は市議選なので自治体レベルの話だが、衆院選などになってもあまり変わらない。なぜ「この人に投票したい」と純粋に思える政治家がいないのか。

そもそも政治家は必要なのか、ということを思ったりもする。もちろん、民主主義国家である以上、国民が主権者であり、国民自身が政治を行うことができない以上、代表者を決めて、政治をやっていただく、というのは確かに必要だ。

しかし、根本的な矛盾があるような気がする。なぜなら、民衆は正しい判断ができないから、代表者としての政治家を選ぶ仕組みだが、その政治家が適格かどうかの判断はどうやってやるのか? と。

そもそも、国民は政治に関する情報をもっていないことが多いし、そのスキルもないのに、どうやって適格な人を選ぶというのだろうか。だからといって「すぐにAIが代替すべきだ」とも思わないけれど、根本の部分で矛盾してるような、ということを思うのである。

究極の政治ってどういうものだろうか。最近でいうとブレグジットや、ちょっと前の大阪都構想のときにやったような、「住民投票」という形は「政治に参加している」ような感じがする。

どちらも、メリット・デメリットを極限まで洗い出して、「どっちを選んでも極端に悪いようにならない」状態にしたうえで、「さあ、どっち?」というのを住民に問うた、というものである。

ブレグジットも大阪都構想も、結果からみれば成功したとも失敗したともいえないけれど、「民意」は比較的反映されたのではないか、と思う。少なくとも、普段の選挙よりは政治に参加している実感が得られたことだろう。

政治というのは「コミュニティのため」に何をどう分配するのか、というところに尽きると思うので、利権が絡むのは当然である。そして、何か選べば何らかの痛みは伴うわけだし、多数決でやれば少数派の意見は無視される。

「全員が完全に納得する」ことなど決してないのだから、「究極の政治の形などない」といえば、その通りかもしれないけれど……。いまの仕組みがベストなものではないことは確かだ。

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