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頭を使うとは、昨日の自分を疑うこと

ルーティンワークなどが多く、あまり頭を使わない日々が続いていると、なんとなく頭がぼんやりしてきて、「頭を使いたい」という欲求が生まれてくるときがある。

「知能」というのも、筋肉などと同じで、使わないと衰えていく一方なのかな、と思う。しかし、頭というのは使おうと思っても、筋トレほどには簡単には使えないものである。ちょっと前に「脳トレ」などが流行ったが、究極のところ、あれが上達するのは「慣れ」のような気がしている。要は、最適化するプロセスでは脳を使うが、いったん最適化ができてしまうと、あまり脳を使わなくなるのでは、ということだ。

どれぐらい頭を使えるか、というのは、そのときの集中力にも掛かっているように思う。本当に頭を使っているときは、深く集中していたりするので、むしろ「頭を使っている」という自覚はないような気がするのだ。

そもそも、「頭の良さ」とはなんだろう。計算力や記憶力ではないことぐらいはわかる。僕は計算力や記憶力には自信があまりない(平均よりも劣っているような気さえする)。

いくら計算が早くても、その前提となる知識が誤っている場合、その後に出てくる結論も間違ったものになるはずだ。むしろ、計算が速ければ速いほど、間違っている結論が勢いよく出てくるだけなので、それほどむなしいことはなかなかない。


 
頭の良さとは、「軌道修正力」なのかもしれない、という仮説を持っている。軌道修正をしていくためには、常に「未来予測」をしなければならない。未来を完全に見通すことが不可能なのは言うまでもないが、たとえその未来予測が不完全であっても、「どれだけ正確に未来を見通すか?」という部分に「頭を使う」ことの肝が隠れているのではないか、と思う。

たとえば、10年後の未来を正確に予測することはほぼ不可能である。スマホが登場する以前は、まさか2022年がこのような世界になっていると予測できた人がいただろうか。一方で、比較的正確に予測が可能なのは、「明日の未来予測」である。「明日」ぐらい近接した未来であれば、もはや「予測」というよりも「予定」という領域になってくる。

重要なのは、10年後の予測と、明日の予測に求められる精度が違うということを理解しつつ、その予測をし続けることだと思う。10年後のことはぼんやりした予測でいい。しかし、明日の予測は精度高く。時は流れていき、日々答え合わせが行われるわけだから、精度はより高まっていくはずだ。

しかし、順次到来していく「未来」によって、そのさらに先の「未来」の形はどんどん変わっていくわけだから、その姿を捕捉しなおして、軌道修正をしなければならない。そのそもそもの「予測」と「軌道修正」の部分に、「頭を使う余地」が含まれているのかもしれない。


 
頭を使うということは、昨日の自分を疑うことなのかもしれない。昨日の自分の考えを踏まえて、また新しいことを考える。それを続けることで、脳が鍛えられていくのかな、と。

少なくとも、間違った答えを勢いよく出し続けるような「脳の使い方」はしたくない。

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