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なぜ「自分の言葉を獲得する」ことが必要なのか?

格闘ゲームにはほぼ興味がないし、あまりやったこともないのだが、プロ格闘ゲーマーである梅原大吾のことは昔から注目していて、動画配信を見たりしている、というのは以前書いた。

そもそも、どうやって彼を知ったのかというと、彼は著書を出版しており、それを読んだからである。おそらく格闘ゲームの世界で活躍しているだけでは、自分のアンテナには引っ掛からなかったと思うので、たぶん一生知ることはなかっただろう。

「本を出す」というのは、自分の枠の外に出ることなんだな、ということがわかる。

そもそもなぜ彼は本を出すことができたのか。もちろん、格闘ゲームの世界で結果を出していたからである。しかし、もちろん格闘ゲームで強い人には他にもいる。なぜ彼だったのだろうか。

そのことについて、本人が「言葉を獲得すること」について語っていた。いわく、人に影響力を与えることができるのは、「自分のオリジナルの言葉を獲得した結果」なのだ、と。

自分のオリジナルの言葉を獲得すると、人々が耳を傾けてくれ、物事が動いていく、ということらしい。

では、「言葉を獲得すること」とは具体的にどのようなことなのだろうか。

梅原によれば、それは「自分の体験を言語化すること」らしい。自分の体験をうまく言語化できると、大きな影響を与えることができる。逆に借り物の言葉、つまり自分の体験に基づかない言葉は、いくら美辞麗句を並べ立てたとしても、あまり人に響くものではない、と。

これに対しては、納得がいくところと、いかないところがある。確かに、自分の経験に照らしてみても、過去の自分の体験に基づいた話をすると、人に伝わりやすい。なんといっても、一次情報だし、「自分が言うことの必然性」があるので、説得力がある。

それに、自分の体験というのは完全にオリジナルな情報なので、希少価値があり、付加価値が高い。noteなどで文章を書く際にも、こういった「オリジナルな体験」をベースにした記事はよく読まれる傾向にある。

しかし、自分の体験というのは、言い換えれば「サンプル数が1しかない」ということである。単に自分が体験しただけにすぎないので、それを世界の真理かのように語るのは無理がある。

真に有益な情報とは、科学論文のように、十分な量のサンプルを揃え、対照実験をし、丁寧に論考を重ねていったものだ。なので、サンプル数がたったのひとつしかないというのは、意見としてサンプル数が少な過ぎでは? という疑問が残る。

しかし、そういった感覚とは裏腹に、「人に伝える」という観点において、非常にこれは強力なのである。

長らくこれは謎だった。いったいなぜなのだろうか。

いま立てている仮説は、聞き手は、サンプル数が少ない意見であったとしても、「ひとつの意見」として受け入れているからではないか、ということである。

実際には、人は他人の意見のみで判断を下すことは少ない。人からのアドバイスを意見として受け入れ、そこに自分なりの解釈を加え、最終的な判断を下していく。その判断プロセスに影響を与えるには、大きな「説得力」のある意見が必要で、それがその人自身が獲得した言葉によるものなのでは、という構造だと思っている。

統計的にデータを正しく分析し、科学的に確からしい論考を重ねるトレーニングも必要だけれど、人に強いインパクトを与えるためには、自分自身が経験したことをベースに、オリジナルな言葉で語る能力も必要なのだろう。

そういう能力がある人とない人では、広がりに大きな差が出てくるのかしれない。

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