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「承認欲求」を飼い慣らす

ここ十年ほどで急速に市民権を得た言葉に「承認欲求」がある。もともと一般には馴染みの薄い言葉だったと思うのだが、今はかなりの市民権を得ている。

一般に浸透された背景にはSNSの登場があると思われる。というより、用語の解釈が、「顔の知っている人に認めてもらう」ということから、「顔も知らない不特定多数を含めた人々に『いいね』を押してもらう」ことに拡大解釈されたのでは、と思っている。

以前は、パチンコなどのギャンブルにハマる人々が問題になっていた(いまも解消はされていないとは思うが)。ギャンブルはお金が絡んでいるので刺激的で、その刺激が人を夢中にさせるのだと思われ、「金銭的な報酬を求め、人々がギャンブル中毒になってしまう」というのが定説になっていた。

ところが、ガラケーがスマホに置き換わると、複雑なゲームがスマホでできるようになり、ソシャゲという概念が生まれた。ソシャゲにハマる層は、パチンコなどのギャンブルをやる層とほぼ同じなのではないかと僕は思っているが、ギャンブル的な刺激を求める人たちがソシャゲの世界に突入した、ということなのだろう。

しかし不思議なことに、ソシャゲはパチンコや競馬みたいな金銭的な報酬はなく、ただ単にアイテムなどが手に入るだけだ。しかし、ソシャゲでいいアイテムを手に入れるために大金を注ぎ込む人々が問題になり、「ガチャ問題」に発展したりした。

人々を狂わせるためには、金銭的報酬ではなく、「アイテムが手に入る」というだけでよかったんだ、というのがソシャゲの発明である。

僕はソシャゲをやったことがないので、なぜ大金をはたいてガチャを回すのか、という心理の根本のところがよくわからないのだが、とにかくそういうことになっているらしい。

でも、自分が小学生だった90年代でも、遊戯王やポケモンカードなどのトレカは流行っており、やはり同級生たちは大金をはたいてカードを揃えていたため、そういうのが流行っているのか、と思った記憶がある。カードを買うためにはかなりの金が必要だったため、僕はそこに近寄らず、トレカはやったことはない。

珍しいカードを揃え、強くなり、周囲から尊敬を集めることが「承認欲求を満たす」ためには必要だったのだろうか。もちろん、純粋にゲーム的な面白さを追求している人が大半だとは思うのだが、承認欲求を満たす要素があることは事実である。



しかしSNS時代における承認欲求の仕組みはそれよりもさらにシンプルで、「どれだけの人が見てくれたか」や「どれだけの人がいいねをしてくれたか」というだけになっている。どんどん無駄なものが削ぎ落とされてシンプルになっていて、より本質に近くなっているような気がするのである。

僕はSNSで大きな支持を得られなくても構わないが、しかしそれでもこのnoteというプラットフォームで文章を発信すると、それなりにたくさんの人々に読んでもらえるので、モチベーションになっているという事実は否めない。

あえてよく読まれる記事を書こうとは思わないが、読んでいる人があまりに少ないプラットフォームで淡々と書き続けるよりは、いろんな人に読んでもらえている実感のある場所で活動したいと思うのは自然なことではないだろうか。

度合いが強いか弱いかの違いだけであり、僕も結局のところは承認欲求に従って動いているとも言えるのかもしれない。



しかし、これは非常に面白い仕組みだなと思う。仕事で、自分が管理しているスタッフの日報にメールで必ず「いいね」をつけるようにしているが、こういう些細な事だけでモチベーションが上がるのならば、そんなに便利な事はない。実際に、モチベーションはあがっているような気配はしている。

なんとも不思議な時代になったもんだと思うけれど、これはおそらく時代というより、人間の本能に根差すものなので、この時代になって人間のそういう本質が発見された、とも言えるのではないだろうか。

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