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小説は、じわっと文章が浮かんでくるのを待つもの

また小説を書いている。公開はするが、誰かに読んでもらうのが目的ではない。小説執筆は自分にとっては大事な作業だと再認識した。

自分は誰にも読まれたくない日記と、こうして人に読んでもらうことを前提としたエッセイを日常的に書いている。これに加えて、虚構の力を借りて文章を書く、という習慣も必要なのだと思った。これが自分にとっての第3の文章表現である。

完全に誰にも読ませない日記をずっと書いている。高校生ぐらいの頃からだから、だいたい2006年ぐらいからだろうか。最初はノートに書いていたが、途中からパソコンで書くようになった。いまはテキスト形式で書いて、クラウドに保存してある。iPadにもデータを入れてあるので、そこで読むこともできる。

基本的には書きっぱなしで全然読み返さないのだが、ここ10年ほどを振り返りたくて、就職した年である2011年から読み返している。読み返す頻度が低いためか、非常に面白い。

さすがにそれぐらい昔になると忘れていることもかなり多いが、読むと記憶が刺激され、当時の空気感が蘇ってくる。当然、体験した本人である自分が読んでいるので行間の思いみたいなものも感じることができる。

現代まで読み返すとどうなるんだろう、と思う。楽しみだ。

エッセイは読み返さないし、いまのところは予定もない。エッセイは自分が考えていることそのものなので、書けば書くほどアップデートされていく性質のものだと思っているからだ。

たぶん過去の自分よりもいまの自分のほうがまともなことを考えているはずである。踏み台のようなものだろうか。過去に考えたことを踏み台にして、新しいことを考えていく。あくまで踏み台なので、自分としては別に読み返す必要もないだろう、と思っている。

エッセイを書く速度は非常に速く、立板に水で書く。考えていることを出力するだけなので、一気呵成に書くことができる。あまり負担はかかっていない。4年以上毎日更新していることからもそれは感じ取れるのではないかと思う。

小説を書く行為は、日記やエッセイとは根本的に違う。まず、小説とは物語であり、芸術作品だと思っている。小説を書く方法論は世の中にたくさんあり、プロットを立てたり、設定を作り込んだりといろんな方法がある。

いろいろ試したものの、自分はあんまりプロットみたいなものを事前に練り上げていくやり方は向かないのではないか、と思った。そういうものを作っても、結局あまりうまく機能しないのである。

先日、芥川賞を受賞した作者のコメントが話題になった。「受賞作の5%ぐらいに生成AIを用いた」というコメントが衝撃的で、話題になったのである。

しかし、インタビューやその他を見ていくと、作中に出てくる設定を手伝ってもらったり、ネーミングを考えてもらうのを協力してもらった、というような感じらしい。生成AIに書かせた小説で芥川賞を受賞したわけではない。

受賞作が掲載されている文藝春秋を購入したら、コラムとして別の小説家が生成AIと小説執筆について述べていた。そこで納得した一文がある。

曰く、人間が小説を書くときは、一部が全体に影響を与えるのだと。つまり、たとえばタクシードライバーが小説に登場したとして、プロット段階では特になんの役割も与えられていなかったが、ふとしたときに作者の気まぐれで何かしらの役割を与えられ、物語全体の筋書きに影響を与える存在になるかもしれない。そうなると当然、全体の構成が変わってしまう。

しかし、人間が小説を書くときは確かにそんな感じがある。その「揺らぎ」が小説の面白さで、作者や読者はそれを楽しみに、どうなっていくのか、と固唾を飲んで展開を見つめることになる。それが面白いのだろう。

小説を書くときは、エッセイとは違う脳みそを使っていそうだ、と感じた部分はここにある。エッセイは考えていることをそのまま出力する感じに近いが、小説はそうではない。

小説を書くとき、しばしばキーボードを叩く手を止め、文章が浮かび上がってくるのをじっと待つ瞬間がある(いや、しばしばどころか、恒常的にそんな感じだ)。水が湧き出てくるのを待つみたいに、言葉が出てくるのを待つ作業なのだ。神託を待つ、みたいな感じかもしれない。

人間の脳みそはノイズがあって、思考も一直線ではなく、いろんなところに寄り道しながらゆらゆらしている。それを捕まえて、全体の構成に影響を与えながら、ひとつの形にしていく作業が小説を書く作業なのだろう。

生成AIにプロットを与え、小説を書かせても、「部分が全体に影響を及ぼす」といったような、インタラクティブというか、フラクタルな構造の作品は書くことができない。あくまで、与えたプロットからはみ出ないように、当たり障りのない文章を書くだけだ。

小説が果たす役割は、とか、もっとたくさんの人に読まれるようにするにはどうしたらいいのか、みたいな問題は瑣末なことにすぎないな、と思うようになった。ただ、じわっといい文章が浮かんでくるのを待つ、それが小説の醍醐味なのである。そういう意味では釣りに近いものかもしれない。

あなたは、エッセイと芸術作品の違いは、どういうところにあると思いますか? また、生成AIに作れない芸術作品は、どういった特徴があると思いますか?

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