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理解のない人に感謝

なんでもいいのだけれど、自分が「やりたい」と思ったことに対して、周りの人すべてが理解してくれるとは限らない。理解してくれて、応援してくれる人もいるかもしれないが、全然理解してくれなくて、壁のように立ちはだかる立場の人もいる。会社でいうと上司、家庭でいうと親などがその対象となるだろうか。
 
「上の理解がない」ことを嘆く人もいるけれど、そもそも無条件で理解してくれる本当にいい上司・親はなかなか現実にはいるものではない。最近、そういった「理解のない人々に対して、自分がどう振る舞うか」というところに、成長する機会があるのではないかということをよく考える。
 
上の人にすごく理解があって、こちらのやりたいことを無条件でそのままやらせてくれるような環境の場合、慎重に物事を考えるというプロセスを学ぶことができない。

行き当たりばったりでガンガン物事を進めていってしまい、最終的にそれがどん詰まりに行き詰まって、大きな損害をまねくことがあるかもしれない。もちろんうまくいくこともあるとは思うけれど、それはたまたま運がよかっただけだろう。長期的にみれば、どこかで行き詰まるはずだ。

仮に誰も壁となって立ちはだからなくても、「本当にそれでいいのか?」とブレーキをかけてくれる存在が必要だと思う。周囲の全員がブレーキをかけてくれない場合は、自分自身の中に、そういったものを持つ必要がある。自立してうまくやっている人と言うのは、大抵そういうブレーキをどこかに持っているように思う。
 
「理解がない人」はありがたい。そういう人に向けて説得するために材料を揃えることで、自分の考えも整理することができるからだ。

なぜ自分がそれをやりたいのか、どうやってそれをやるのか、やったらどれだけいいことがあるのか。それを論理立てて説明する訓練になる。
 
ものすごく調子の良いベンチャー企業なんかで、ぐんぐんと業績を伸ばしていたのが、何かのきっかけで倒産に一直線に進んでいくようなパターンを見ることがあるが、あれはブレーキ役が存在しないか、いたとしても振り切れるぐらい、経営者にパワーがある場合なのだろう。
 
そういう人はしがらみを気にすることなく前進することができるので、ある意味強いのだが、自分の中に全くブレーキを持っていないと、そのまま崖から飛び降りてしまうような結果になりかねない。

要は物事をきちんと精査していないので、ハンドルの切り方を間違えてしまうと、あっけなく落下してしまうのだ。

もっとも、大抵の人の周囲にはありがたいことに、「理解のない人々」はたくさんいる。そういった人たちをいかに説得して、自分の考えを理解してもらえるか、徹底的に考えることで、思慮が深まり、結果的に成功できるのではないかと思う。
 
フィクションに出てくる理想の上司・親とは、フィクションの中の世界だからいるのであって、現実はそう甘くはない。しかし甘くない現実も味わうぐらいのユーモアがあったほうが、人生は楽しいと思う。

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